12/17新刊「綴られた想いの涯てに」サンプル置き場
仮サンプルにR18要素はありませんが、本はR18となります
(描写は温めでR18シーンはエピローグ部分に1回だけです)。
12/09に誤字脱字修正を行いました。
![スクリーンショット 2023-12-12 120909.png](https://static.wixstatic.com/media/797380_d2198a1ceec74580849ff278481eae8f~mv2.png/v1/fill/w_351,h_504,al_c,q_85,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%202023-12-12%20120909.png)
カバー表紙イラスト はく様
他サイトサンプル&通販ページ
(このサイトのサンプルは長文を1頁に収めているため、場合によっては他サイトのほうが見やすいかと思います)
pixivのサンプル置き場。
文字サンプルを置いてます。
段組み見本を兼ねた、画像でのサンプルを置いてい ます。
綴られた想いの涯てに
1章「夢と現実の交錯」
・自己設定&捏造満載の、演算世界を絡めたシリアス長編アルユリです(特に演算世界の話については99.9%捏造)。
・周年イベ直後にストーリーを考えた為、アルユリのアウギュステ訪問に関して原作と大きく齟齬が出ていますが「じょうがさきの書きたかったアルユリ」として納得していただければ幸いです。
・現実世界のアルユリはハピエンです。
・演算世界ついては、アルベールがユリウスを失っている以上完全なハピエンはあり得ないですが、可能性として2つの結末があることを文章内で示しています。
(……ここは?)
重さすら感じるような深い闇の中にアルベールは立っていた。
(声?)
微かな、消え入りそうな呟きが耳に届き、闇を見渡す。己の声に似ているような気もしたが、内容までは分からずとも聞こえたそれは硬く温度を持たないもので。故に別人だと結論付けた。自分はあんなに冷たい声を出したことはない、と。
漆黒の中、一か所だけぼんやりと闇が薄くなっている部分があり。近付くとそこに一人の人物が座り込んでいた。後姿だが男だと判断が付く。黒の中で僅かに柔らかい光を放っているのは、座り込んだ男が持つ金色の髪だ。
つい先程は声で別人だと判断したが、姿を見ればやはり自分に似ている気がする、と思った瞬間。男の他にもう一人、彼が抱えるようにして抱きしめている人物が居ると気付く。
しっかりと抱え込まれているため顔は見えないが、男の膝から床に掛けて散らばった長い髪、その色には見覚えがあった。髪の持ち主の手は力なく垂れている。
……まるで一切の生を感じさせないように。
(まさか)
自分によく似た後姿を持つ男が抱えているのが、これまた自分の親友によく似た姿を持つ人物だと分かった瞬間。
(⁉)
アルベールの脳裏に映像が過った。己とユリウスが対峙しているそれ。
ユリウスに呼び掛けている自分と、静かに首を横に振るユリウス。二人とも何か話しているが声は聞こえてこない。ユリウスは諦めと安堵が入り混じったような表情を浮かべていて、対する己はこの世の絶望を全て集めたかのような表情だ。
(……何だ、この記憶は)
アルベールがユリウスと過ごしてきた時間の中に、こんな記憶はなく。またユリウスのこんな表情も見たことはなかった。
アルベールの混乱を他所に映像は進んでいく。
己の表情に悲痛さが増し、ユリウスへと剣を向け、そして。
「‼」
唐突に視界が明るくなり同時に瞳に映し出された天井に、アルベールは己が夢から目を覚ましたのだと悟った。
深い闇がまだ絡みついているかのように重い体を起こし、隣にユリウスの姿がないのに気付づいて心臓が大きく音を立てる。しかし直後、部屋のドアの一つ、その向こうから水音がしているのに気付き、詰めていた息を深く吐き出した。
水音のした扉、その向こうはシャワールーム。ほどなくしてドアが開き、中から長い髪の毛先を綿布で拭いながらユリウスが姿を見せた。彼の髪は後頭部のやや高い位置で緩く纏められている。
(……大丈夫だ、ユリウスはここに居る。俺の傍に存在している)
ユリウスの姿を実際に確認し、強張りの残っていた体から漸く力を抜くことができたアルベールは、心の内でその言葉を繰り返した。自らに言い聞かせるように。
この場所は少し前に光華の改良に熱中する自分たち二人のためにと、新王陛下が用意してくれたもの。城から離れ過ぎない場所にあり、屋敷自体は小振りだが、庭がかなり広い。光華の試作品を打ち上げられる程度には。
昨夜は光華の出来の最終確認をした後、二人で葡萄酒と食事を愉しんだ。光華の製作自体はアルベールがユリウスへ教えたものだが、ユリウスはその頭脳で彩りにより変化を持たせ、またアルベールも意見を出し二人で新たな光華を考案し、これならば迎える客人の歓迎に相応しいと思える出来の物が仕上がった。
一仕事終えたすがすがしい気分で光華の出来と迎える客人達について話を咲かせ、気付いたら夜が更けていて。簡易だがこの場所にも寝るための部屋は設けられているから泊まることにした。
寝台はやや大き目ではあるが素朴な作りの物が一個だけで、アルベールはソファで寝ようとしたのだが。ユリウスから二人で寝れない大きさでもないだろう? と言われて同じベッドに入ったのだった。
ユリウスが先に眠りに落ち、その寝顔を少し眺めてからアルベールも目を閉じた。親友の穏やかな様子を感じながらの、幸せな眠りだったはずなのだ。……あの夢がなければ。
「おや、起こしてしまったかい?」
ユリウスはシャワーの音でアルベールが目を覚ましてしまったのではと思ったようだが、首を横に振ってそれを否定する。起きてから鍛錬をする習慣があるアルベールは朝が早いほうだが、今日はまだその時刻にも届いていなかった。
ユリウスの起床時間は結構ばらけている。それは彼が研究に熱中して夜更かし、場合によっては徹夜する場合もあるからだ。だが昨日は葡萄酒を酌み交わした後、比較的常識的な時間に就寝していて、だから早く目覚めたのだろう。
夢見が悪くて目が覚めたと正直に伝えようかと思ったが、そうすると夢の内容にユリウスが興味を持ってしまうかもしれない。現実とは異なる単なる『夢』だとしても、あんな状況の話をしたくはなかった。
(……ただの夢、のはずだ)
ユリウスを失う、その状況を想像してしまったことは何度かある。だが現実にはならなかった。
色々と危うい場面は何度かあったが、グランやルリア達の助けもあり、ユリウスは今この国で、アルベールの傍で生きている。彼は今確かにここに存在している。その姿を見て確かに安堵している。なのに何故。
不安は完全に消え去ってくれないのか。心の奥底に張り付いてしまっているのか。
「……俺もシャワーを浴びてくる。出迎えの準備をしなければならないしな」
「そうだね、それがいい」
半ば自身の心を誤魔化すように告げた言葉だったが、ユリウスには気付かれなかったようだ。今の彼は各人の歓迎、それを成功させることが胸の内の大半を占めているのだろう。
今日はグラン達と十天衆、そして彼らの友人という以前レヴィオンを訪れた面子が再び観光にやってくる予定になっている。グラン達が十天衆とともに大掛かりな事件を片付けた後、癒しの場所として再びこの国の温泉を選んでくれたのだった。
「アルベール、久し振り!」
グランが明るい声を上げ、アルベールの横に視線を送った後、くるりと辺りを見回す。誰を探しているかはすぐに見当が付いた。
今アルベールの傍にユリウスは居ない。各所に最終確認をしてから向かうよと言っていたから、すぐに姿を見せるだろうが。
(?)
程なくしてユリウスが姿を現し、彼とグランたちと和やかに会話する姿をアルベールは柔らかい笑みとともに見守っていたのだが。グランが連れてきたメンバーのうち、前回は居なかったやや覇気のない青年が遠慮がちではあるがユリウスに視線を向けている様子が、その瞳に滲んでいる感情が気になった。
滲んだそれはアルベールが夢から覚めた際、ユリウスの姿を見て浮かんだ感情に似ている気がした。だが青年がユリウスにそんな想いを込めた視線を向ける意味は分からない。
青年とアルベールは初対面なのは確かだし、グランたちから少し離れた場所に立っているところを見ると、ユリウスとも面識はなさそうだから余計に。
「親友殿、そろそろ皆様を宿に案内しよう」
話し足りなさそうなグランたちに、夜の宴は私たちも同席するから積もる話はその時にでもね、とユリウスが告げて。
アルベールはユリウスとともに彼らを今宵の宿泊場所に案内した。建物自体は以前彼らが泊まった所と同じだが、部屋の内部は以前より洗練されている。ユリウスが前回の彼らの宿泊の後、この部分はこうしたほうがいいと細かい指示を出していたのだ。
前回はユリウスの護衛も兼ねていたから騎士としての装束を纏って迎えたが、新王陛下の治世の元、国も随分落ち着いた今。以前ほどの危険はないのではとユリウスから言われ。故にアルベールはアウギュステで過ごした際に着ていた衣装、前回光華を打ち上げる際にも身に着けていたそれを着用している。暑い時期に水辺で過ごすことを前提に作られた服。今の季節は夏の範囲からは外れているが、今年はまだ暑さが残っていて、それを着て過ごすのにちょうど良い温度だった。
ユリウスは宿泊施設の利用客に提供される物と同じユカタヴィラ姿。前回と同じ装いだ。前回と違うのは右側の横髪をピンで留めていること。ピンは小さなガラス飾りで彩られている。サンダードームの製作を依頼している工房の作品で、その内売り出す予定らしい。今回の客人たちの中に興味を持ってくれた人が居れば贈る予定だよ、とも。
ユリウスは個人のユカタヴィラも持っている。そのユカタヴィラはアルベールがアウギュステ土産として贈った物。
着替えの際に今回も身に着けてくれないのか? と尋ねたところ、あれは客人の歓迎には少し派手だからねえと返って来た。
気に入ってはくれているのだと思う。袖を通した姿は見たことがないが、たまに彼の部屋の壁に飾られているのだから。しかし今回も身に着けた姿を見えないことを残念に思っていると。
「君と二人でアウギュステにでも行く機会があれば着るけどねえ」
なんて呟きが耳に飛び込んで来て。すぐには難しいだろうが、そう遠くない内に実現してみせる、とアルベールは密かに決意した。
(演算世界、か……)
詳細な話は無かったが、というよりグラン本人も演算世界については当事者側とは言えない上に繰り返された世界の記憶を持っているわけではなく。故にしっかりとした説明はできなかったのだろう。夢で見た気はするけど、それもぼんやりとしか覚えていないと言っていた。
ただこの世界の成り立ちの前に、あらゆる可能性を計算した世界があったという事実を簡単に聞いた。それが演算世界だと。そしてその演算世界の一部が今の現実世界に侵食し、それらを封じ込めるための戦いが少し前に起こったのだと。
アルベールが話を聞いたのは夕食の席。最初は新王陛下と王弟殿下も居たが、彼らはグランたちと軽い挨拶を交わした後すぐに場を去り。その直後アルベールの隣に来たグランが、演算世界の話を始めたのだ。
ユリウスは暫く食事の席には着かず、客人の食事や飲み物に注意を向け、足りなくなりそうな品の提供を施設の職員に促していたが、全体的に食事が落ち着いた今は客人と軽い雑談を交わしている。
ユリウスが今話しているのは十天衆の青年。確かシスという名前だったはずだ。顔の半分以上が仮面で隠れているためはっきりとした年齢は分からないが、何となく自分たちよりかなり年下だろうとアルベールは感じている。前回ユリウスは彼に助けられた。またシスのほうもユリウスと話したことで何らかの気持ちの変化があったようだった。
シスとユリウスから視線を離しグランに戻すと。グランの視線も二人に向いていた。
「……うん、ユリウスはここにいる」
小さな、思わず零れてしまったという感じのグランの台詞は、誰かに聞かせるためではなかっただろう。けれどアルベールの耳にはっきりと届いた。数時間前に己が胸の内で呟いた言葉とよく似たそれ。
グランの瞳には、アルベールが半ば想像していた通りに安堵が滲んでいた。
(……演算世界……今とは違う未来。グランたちのユリウスへ向ける視線……もしかしたら)
己が見た夢は演算世界での自分たち、ではないのか。
演算世界の可能性とは決着がついたのだと、グランは言っていた。この現実世界が揺らぐ心配はない、と。ならば。
(あれが演算世界で起こった出来事だとしても、単なる夢として処理して良いはずだ)
だというのに、アルベールの心は。夢を見てから抱え続けている不安から解放されることはなかった。
「乾杯。そしてお疲れ様」
「ああ、お前も。何事もなく終わって良かった」
「本当にね」
ユリウス持つグラスに、アルベールは自分のグラスをかちりと軽くぶつける。部屋に一つしか置かれていない二人掛けのソファに横並びに座っているから、グラスを合わせる際アルベールはユリウスへと体を傾けた。
グランサイファーはグランたちを乗せて既に飛び去った後だ。昨夜打ち上げられた新しい、ユリウスが色に変化を持たせアルベールが雷の力を乗せた光華は、グランたちだけでなく居合わせた観光客にも好評だった。
前回は平穏無事とはとても言えなかったが、今回グランたちの歓迎の日程は全て無事に終えた。そして自分たちにはもう一泊、休暇として宿に泊まる日程が組まれており、今はその時間だ。休暇は新王陛下の計らいだった。
夕食はグランたちと一緒に終えていたから、葡萄酒の友はチーズとクラッカーのみ。風呂も済ませ、身に着けているのは外出用とは別の帯が必要ない就寝用のユカタヴィラ。これもユリウスが他国で使われているのを知って取り入れた物だ。
「眠いのか?」
普段二人で葡萄酒を楽しむ際、アルベールのほうが先に眠気を覚えることが多いのだが、今日はユリウスの瞼が既に重そうだ。
(無理もないか)
ユリウスはグランたちを迎える日々をより良いものにするために、色々と考え実行してきた。関わる者たちへの指導も欠かさなかったし、二人同じ部屋で休んだ夜にも、何か案が浮かんだのか、アルベールを起こさないように気を遣いながら机に向かっていた。
それらの成果が結ばれた今、ホッとしたと同時に疲れが一気に出たのだろう。
「そう、だね」
返って来た返事にも力はなく。アルベールはユリウスの手からグラスを抜き取りテーブルに置いてから。親友を寝床へと導いた。
寝床はベッドではなく布団。温泉街の開発の際に参考にした地域で使われていたからこれも取り入れてみようと思ってね、と以前ユリウスは言っていた。
二つ並べて敷かれた布団の一つにユリウスを寝せ、掛け布団を肩辺りまで掛けてから、もう一つの布団に寝転ぶ。
疲れている自覚はなかったが、隣のユリウスの規則正しい寝息につられるように、アルベールもすぐに眠りへと落ちていった。
(……!)
目の前には数日前に見た夢とよく似た状況。以前と違うのは、あの時には聞こえなかった『声』がはっきりと聞き取れていること。
自分ではない、けれど己によく似た、全く同じといって良い背が視線の先にあり、頭の中にその声が響く。自分と同じ声質、けれどこの身はそんな感情を乗せた声を出したことはない。己の行動に悔いを残したことは何度もある、けれど。
『……俺は、この一撃を一生後悔するだろう』
大事なそれを決定的に失ってしまうような、そんな悔恨に満ちた声を絞り出すような状況には陥ったことはない。
演算世界の己が、ユリウスへと剣を向ける。
(やめろ‼)
力の限り叫んだつもりなのに、音にならない。伸ばした腕にも手応えはなく。
(⁉)
けれど止めようと伸ばした手は、追いかけていた背に何の抵抗もなく吸い込まれていく。
「……ぁ」
予期せぬ現象に思わず目を閉じ耐えていたアルベールが瞼を上げると。まず視界に飛び込んできたのは、自らが抱え込んだ『彼』の、親友の。
血に濡れた腹、だった。
「……っ」
布団から跳ね起きる。掛け布団が大きく乱れたが、気遣う余裕はなかった。寝汗を掻いているのに、体温は酷く落ち込んでいる。
ぎこちなく首を巡らせ、見付けたユリウスの姿だけがこの部屋の中でアルベールに温度を与えてくれる。
(演算世界の可能性、それは封じ込めたとグランたちは言っていた……もし生者も死者も同じ場所で眠っているならばそれはきっと救い、だ)
特に演算世界の己にとっては。いきなりその生が強制的に途切れたと同然だったとしても、ユリウスの居ない世界で生き続けるより余程幸せだろう。だがもし演算世界での彼らの生が何らかの形で続いている場合。夢の内容、その後の世界がまだ存在するのならば。
あの世界の『アルベール』には絶望以外に何が残っているのだろう。
「しんゆうどの?」
部屋に常備されている手拭いで汗を拭き取っていると。隣で眠っていたユリウスが目覚めてしまった。
「……少し寒くて目が覚めた」
普段の体温は高いほうだが、先ほどまで見ていた夢―おそらくは演算世界の己にとっての現実だが―によって体だけでなく心も硬く冷えて来ている。
「君が寒がるとは珍しいねえ」
そう言いつつころりとこちら側に身を近づけてきたユリウスを、アルベールは抱き止める。ユリウスの体温は余り高くなく、触れた肌から伝わってくる温度はじんわりとしたものだったが。
今のアルベールを暖めるには充分、だった。
(……親友殿は毎日様子を見に来ている?)
温泉街用の新商品、それを作り出すための実験というより調理に近いそれに向き合いつつ。ユリウスはアルベールのここ暫くの行動を思い返して首を傾げた。
元から研究に夢中になり過ぎて食事や睡眠を疎かにしがちな自分を、親友が心配して様子に伺いに来ることはよくあった。だがアルベールとて騎士団長として忙しい身。今までは毎日ではなかったはず。しかし少し前、グランたちがこの国を再び訪れたその後辺りからだろうか。アルベールは毎日どころか多い時は一日数回、様子を見に来ている。昼間は声を掛けずに姿だけを見て去っていくこともあるが、夜はおそらく近くまで来て姿を確認している。
おそらくという前置きが付くのは、ユリウスが必ずしもその時に起きているとは限らないからだ。研究室での床で倒れるように眠っている場合もあるし、書類を読みながら机に伏してしまっていることもある。以前は目覚めるまでそのままの状態が多かったが、ここ暫くそれが全くない。目覚めると自分で移動した記憶はないにも関わらず、必ずベッドの上に居るのだ。運んだのはアルベールだろう。
(親友殿でなければ私はきっと、目が覚めるからね……)
以前と比べると随分取り巻く環境は良くなったものの、ユリウスにとって暮らし易いとは言い難いこの国の中で、アルベールは数少ない心を許せる存在、その筆頭だ。
(しかし何が一体親友殿にこんな行動を取らせている? 最近は内政も落ち着いていて、私の命を狙うような者も明確には確認できていないというのに)
以前の、この国にユリウスが戻って来たばかりの頃、アルベールはユリウスに対して目に見えてかなり過保護になっていた。あの時はユリウスの命を狙う者が居るというはっきりとした理由があった。しかし今のアルベールはユリウスの存在を何度も確かめる行動で、何かの不安から逃れようとしているようにも見える。だがその不安の原因が、ユリウスには思い当たらなかった。
ガラス棒でかき混ぜていたビーカーの中身をコップに移し、少量口に含んで飲み込む。作っていたのは果物入りの炭酸水。葡萄を使ったものは既に売り出しているが、他にもレヴィオン産の果物を使った炭酸水が作れないかと思案しているのだ。今回出来上がったものは香りが弱く、何も入っていない単なる炭酸水と大きな違いは感じ取れない。これを売り出すのは少し難しいだろう。
味が喧嘩しそうにない何種かの果物を混ぜ込んでいるから、ただの炭酸水よりは幾分栄養はあるはず。商品としてでなく普通に飲む分には問題はない。
(……親友殿、顔色も少し良くなかったか。ちょうど陛下から二人で、といただいた食材もあるし親友殿好みのボリュームのある料理も作れそうだ)
今夜はこの失敗作の炭酸水の消費も兼ねて、親友を夕食にでも誘ってみようと。ユリウスは支度に取り掛かるため、簡易キッチンへと向かった。
研究と執務、そして私室を兼ねたこの部屋。その食料貯蔵庫の中身は現在、新王陛下から受け取ったベーコンやウィンナー、ハムやチーズなどが占領している。グランたちを歓待する際に張り切って仕入れた物が少し余ってしまったらしい。もしかしたらそれは遠慮させないための陛下の方便だったかもしれないが、消費を手伝っていただければ助かりますという言葉に、ユリウスは小さな笑みを浮かべて頷いた。感謝の言葉も付け加えて。
アルベールとユリウスそれぞれに渡すのではなく、二人分を纏めてユリウスに渡したのは。アルベールが料理を殆どしないというのもあるが、ユリウスに渡しておけば自然と二人で消費することになると考えたのだろう、多分。そしてその考えは間違っていなかった。
「親友殿」
ここ暫く日夜研究室に篭っていたユリウスが騎士団の訓練所に姿を見せ。親友の姿にアルベールは表情を緩めた。訓練が終わったらユリウスの様子を伺いに行くつもりだったのだ。
「昼間に外に出てるのは珍しいな」
「実験が一段落付いたのでね」
「何日も篭っていた成果はあったのか?」
アルベールの問いに、ユリウスは小さく笑みを浮かべたが、その眉は少し下がり気味。
「全くのゼロではないが満足行く結果でもなかったというところか?」
「その通り。それでその満足行かなかった結果の処理を、親友殿に夕食のついでにでも手伝って貰いたくてね」
ああ、商品にするには少し物足りないというだけで、味は悪くないから安心したまえ。後それだけでなく、陛下から私たち二人分の食材を預かっていてね。消費して貰いたいのは飲み物だから、その肴に陛下からいただいた食材を使おうかと。
実験の際は効率的な栄養摂取を求めすぎるのか、個性的過ぎる味が多いユリウスの料理だが、普通に作る分には料理上手の部類に入る。二人で葡萄酒を酌み交わす際も、たまに出してくれる手料理はどれも美味で。アルベールは市販のつまみよりもユリウスの作ってくれる物を好むようになっていた。
「夕飯時にお前の研究室に行けば良いか?」
「そうしてくれたまえ。では私は料理の続きに戻るとしよう。食材がなかなかに上質でね。腕の振るい甲斐がある。楽しみにしてくれても構わないよ。期待には応えられると思うからね」
ゆったりとした足取りで去っていく親友の背中を、アルベールは見送る。
ユリウスは何も聞いてはこなかったが、おそらく己が何度も彼の様子を伺いに行っている事実に気付いている。食事に誘ってくれたのは言葉通りの理由だけでなく。この身への心配もあるのだろう。
相変わらずこの世界の自分ではない、けれど『アルベール』と呼ばれるレヴィオン王国の騎士が過ごした時間を夢に見続けていて。
眠りは浅く、顔色が普段に比べて優れない自覚はあった。それでも生活自体は普通に送れており、何かあったのではと勘付いているのはユリウスくらいだろう。
「これ、私たち姉妹がいただいても構わないのですか?」
「ああ、親友殿は余り甘い物は好まないし、私もそう多くは食べないからね。受け取ってもらえると助かるよ」
夕方、ユリウスの元へと向かっていたアルベールの耳元にそんな会話が届く。声のするほうへ顔を向けると、目的地である部屋の扉の前。ユリウスとマイムが話しているのが見えた。
料理をしていたためかユリウスの長い髪は背中側に流され一本に纏められている。髪を纏めている濃紅のリボンは、以前アルベールが贈ったものだ。
マイムの手には箱が抱えられている。形状から入っているのは菓子の類だろう。箱の上部は少し開いており、中が覗ける状態になっているようだ。箱に視線を向けているマイムの表情は少し緩んでいる。
アルベール自身は余り甘味を好まないからユリウスの手作り菓子を口にする機会は多くはない。だが菓子を作る彼の姿を眺めるのは好きだ。故にその手際も知っている。出来上がった菓子はいつも凝っていて、マイムの表情からして今回も違わずに凝っているのだろう。
(……そういえば、夢にマイム達が出てきたことはないな)
この世界とは違う、おそらくは『演算世界』の夢。何度も見たその夢の中に、マイム達三姉妹は一度も登場していない。
(まさか……あちらの世界にマイム達は存在していない?)
もし、そうだとしたら。夢の中の、この世界より生き辛いあの国で。己の心はより一層ユリウスに依存していたのではないか。そしてそんな状況の中で、ユリウスを失ってしまったのだとしたら……。
(それは『俺』に取っての現実ではない。ユリウスはここに居る)
想像してしまった夢の中の己、その状況に同化しそうになり凍えていこうとする心を。
「親友殿」
「アルベール団長」
こちらに気付いた二人の声が押し留めてくれた。
「……体が冷えているね」
マイムが妹たちに見せてきます、と箱を小さく掲げて去っていくのを見送った後。アルベールはユリウスによって部屋の中に招かれた。
体調の悪化をマイムには悟られなかったが、ユリウスの目は誤魔化せなかった。
頬に軽く添えられたユリウスの手の温度が心地好く。彼が確かにこの場所で生きているという安堵をアルベールに与えてくれる。
「消費を手伝ってほしかったのは炭酸水なのだがね。……今日は止めておこう。少し待っていてくれ。暖かい飲み物を持って来よう。ああ、料理には手を付けて貰って構わないよ」
暖かい飲み物よりも、このまま彼の温度を感じ続けていたほうが落ち着く気がした。けれどそれを口に出しては余計な心配を掛けかねないから、引き留めようとした言葉は飲み込んだ。
いつも二人で酒を酌み交わす際に座るソファに腰を下ろす。ソファは二人掛けの物がひとつだけで、隣にユリウスの座るスペースを空けた。以前は向かい合う形で一人掛けのソファがふたつ置かれていたのだが、スペースの節約のためにかソファはいつの間にか一つになっていた。並んで座るのに不満はないから、前のソファの行方を尋ねたことはない。
ソファ前のテーブルには所狭しと料理が並んでいる。まだ湯気を立てている皿もいくつかあった。皿の中身はアルベール好みの料理が多く。その事実が冷え掛けていた体と心を暖めていく。
先に食べていても構わないとユリウスは言っていたが、二人で一緒に楽しんだほうがより美味しく食せるだろう、と。アルベールはユリウスが戻ってくるのを待った。
「待たせたね」
程なくして戻って来たユリウスからコップを手渡される。普段葡萄酒を楽しむ際に出されるゴブレットやグラスとは違う、背の低いやや厚手のガラスコップ。中身の色は見慣れた葡萄酒のそれだが、ガラス越しにじんわりと暖かさが伝わってくる。じっくり中身を見るとカットされた果物が入っているのが分かった。
一通り料理を終えたからか、ソファに座ったユリウスの髪は、いつものように下ろされている。
「余り酒精の強い葡萄酒ではないが、酒が無理そうならジュースで作り直してくるよ」
「いや、酒自体は飲みたい気持ちはあるからこれで大丈夫だ」
口に含むと控えめな甘さとともに温かさがじんわりと舌、そして体に広がる。以前食堂で似たような物を飲んだ時は余り好みの甘さではなかった。物珍しさから興味を惹かれ頼んだのだが、自分には甘過ぎたのだ。だがこれはおそらくユリウスが己の好みを考えて作ってくれたのだろう。甘さはそこまで感じずとても飲み易く、手にしたグラスはすぐに空になっていた。
「お代わり、いるかい?」
「……頼む」
三杯ほど温かい葡萄酒を飲んだ後、もう大丈夫だ、炭酸水の処理も出来るとユリウスに告げたが。
「炭酸水は温いと不味いし、君は体が冷たかっただろう? 今日は止めておきたまえ。温かい葡萄酒はすぐに用意できるから」
と返され、言葉に甘えることにした。
「……いつもならそろそろ眠気を覚えている頃合いでは?」
「そう、だな……」
ユリウスの手料理とともに、かなりの量の葡萄酒を飲み干した。普段なら彼の指摘通り、瞼が重くなってくる頃合い。だが今日はまだ眠気を感じていない。以前より酔い難くなっているのだ。原因は多分夢の中の己が置かれていた状況。
この部屋には己とユリウスしかいないが、扉の向こうには城で暮らす人々の気配がある。完全に二人きりの空間でないと、今のアルベールは安心して酔い潰れることは出来そうになかった。
「私のほうが今日は先に眠ってしまいそうだ」
手にしたグラスの中身を飲み干したユリウスがぽつりと呟く。
「片付け程度なら出来るし、眠っても構わないぞ。これだけ食べて飲めるんだ。俺の体調ももう大丈夫だと伝わっただろう?」
「ならばもし寝てしまったら後の事は頼むよ」
アルベールが頷いた直後。ユリウスの背はソファに深く沈み、その瞼がゆっくりと閉じられた。暫くは目を閉じていただけのようだったが、やがて薄く開いた唇から穏やかな寝息が零れ始め。その様子を眺めつつ、アルベールは片付けのために立ち上がった。片付けが終わり次第、ユリウスをベッドに運ぼうと考えながら。
(夢の中のユリウスは……城に私室と化しているような部屋は持っていなかったな)
洗い上げた皿を拭き、食器棚―正確には実験用具の収納用の棚の一部に食器を入れているのだが―に仕舞いながら思う。今日の食材は新王陛下からいただいたとユリウスは言っていたが、夢の中の、まだ王子という地位の陛下はおそらく。ユリウスという兄の存在自体を知らないようだった。
夢の中と違いこの世界の彼らは、兄弟としてはまだ微妙な関係だが、王と臣下としては良い関係を築いて行っている最中だ。彼らが善策を、己が武で国を守ることでこの国は寄り良くなっていくだろう。以前と違いそんな未来が想像しやすくなっている。だから夢と同じ道を辿りはしない。その危機はもう去ったはず。
(だが……あの世界の俺とユリウスは)
断片的に夢で見ただけだが、そこから得られた情報からだけでも、今の自分たち、その過去より強く結ばれていたように思う。国の方針上、周囲に心を理解してくれる者が居らずお互いだけを拠り所にしていたように見えた。そんな二人が何故。
あんな結末を迎えなければならなかったのだろうか。
夢に囚われそうになる己を叱咤するようにアルベールは首を左右に強く振る。
(ユリウスをベッドに運ぼう)
彼の姿を見れば、この揺れる気持ちも落ち着くはず、と。
アルベールはユリウスが眠っているソファへと早足で向かった。
(良く寝ているな……)
ソファから離れ片付けが終わるまでにそれなりの時間が掛かっている。もしかしたら目を覚ましているかもしれないと思ったが、ユリウスはまだ目を閉じたままだ。ここ暫くは実験等で遅くまで起きていたり徹夜する日が多かったから、疲れが溜まっていたのだろう。
起こさないように慎重にユリウスの体を横抱きに抱える。そのまま部屋のベッドに運ぼうとして、足が止まる。
この部屋のベッドはユリウス愛用の枕や、それなりに上質のシーツで彩られてはいるが、ゆっくり体を休めるには少し狭い。
今日は朝まで彼の傍に居たいと思っていたアルベールは。少し考えた後、ユリウスを抱えたまま部屋を出、医務室へと向かった。
医務室のベッドは広く、夜は基本誰もいない。夜、寝落ちたユリウスをゆっくり休ませるために医務室に向かうのは今日が初めてではなく。鍵の持ち出し記録に己の名前を記しておけば、またいつもの状況かと周囲も納得してくれるはずだ。
「……デストルクティオ」
医務室に入りベッドにユリウスを下ろす前。改めてその体温を確かめるように抱え直していると。ユリウスの腰下、髪の間から静かに触手が一本現れた。
「ユリウスが眠っている時に俺の前に姿を見せるのは珍しいな」
ベッドにユリウスをそっと下ろし、こちらを向いている触手の頭を、アルベールは軽く撫でる。
「お前も心配してくれているのか?」
ユリウスは何となくデストルクティオが伝えたいことは感じ取れると言っていたが、アルベールには分からない。瞳のない触手の頭からは表情も窺えないから余計に。だが心配してくれているという想像は、大きく外れていない気がした。
(夢の中の俺は……この星の獣を『化け物』と呼んでいた)
あの世界のユリウスが命を落とす大きな要因となったのだから無理もない。己自身も少し前までは忌むべき存在だと思っていた。だがこの世界のユリウスと目の前の星の獣は、共に生きて行こうとしている。ユリウスからはこの存在に助けられた事実もあると聞いていた。
「俺がユリウスの側に居られない時は……」
お前がユリウスを、お前の宿主を守ってくれ。
ユリウスを起こさない程度の声量で、けれどはっきりと囁くと。触手型の星の獣は、小さく頷いたように見えた。
ユリウスの中に触手が戻っていくのを見送ってから、穏やかに眠り続ける親友の隣に身を滑り込ませる。
軽く抱き寄せるとユリウスがもぞと身動きし。人肌の温度が心地好かったのか、アルベールの胸に頭を摺り寄せるような体勢で満足げな笑みを浮かべて。
その様子を優しく柔らかい気持ちで見守った後、アルベールも瞼を下ろした。
夢が原因で不安を抱く度に、親友の体温を腕の中に閉じ込めて過ごしているなと思いながら。
その夢を、アルベールは最初、夢だと認識できなかった。何故なら。
夢を見る前の己の状況と余りに似ていたから。
まるで現実の続きのようにベッドの上に寝転んでいて。腕の中にはユリウスが居た。だが彼の瞼は伏せられているものの、眠ってはいないようだ。アルベールの背に回された腕にも僅かに力が篭っている。
アルベールが夢だと認識できたのは、和らいだ心で眠りに就いたはずの自分の胸の内が暗い感情で満ちていたから。
夢の中の己に何があったか詳細は伝わってこない。だがあまり良くはないことだとはぼんやりと感じ取れた。そうでなければこんなに体が重く、心が淀んでいるはずがない。
腕の中のユリウス、その心音が触れ合った部分から優しく響いていて。夢の中の世界で彼が生きているという事実だけがアルベールを安堵させてくれる。
抱き締めているのはアルベールで、ユリウスの手は背に添えられているだけだったが。
己のほうがユリウスに縋り付いていて。親友がそれを宥めてくれているように思える。そしてその考えは。
「君のせいじゃない」
目を瞑ったままのユリウスの、小さく開かれた唇から零された言葉からも、間違っていない気がした。
「君が私をここまで運んだのかい? 親友殿。……また顔色が良くないね」
隣に寝転びこちらを眺めていた親友に、ユリウスは声を掛ける。二人が並んで寝転んでも充分な広さのベッドからここが医務室だと理解していた。同時にソファで眠ってしまった自分をアルベールが運んだのだとも。
昨夜しっかりと食べた上に葡萄酒を楽しむアルベールを確認したというのに、今ユリウスの瞳に映る彼の顔色は良いとはいえない。
「……また少し夢見が悪かっただけだ……。と言っても俺自身はっきりした内容は覚えていないというかどういった悪夢かは上手く説明できないんだが。ああ、でも目覚めてお前の顔を見たら安心したから、顔色もその内戻る」
アルベールの言葉や表情に嘘は感じられない。彼は己でも理解し難い内容の夢に苛まれているのだろう。心配ではあるが、人の夢をどうにかする力はユリウスにはなく、どうすることもできそうになかった。
(何故か私の存在が落ち着ける要因になっているようだから、昨夜のように一緒に夕食を取った後はまた共に眠るのも良いかもしれない)
流石に常に同じベッドに入るとなると、変な噂が立ちかねない。たまになら今までもあったし、幸い周囲もそれを距離の近い友人として受け入れてくれている。頻度を少しだけ増やす程度なら問題なさそうだ。
ただそれをアルベールに直に伝えるのは流石に少し羞恥を覚え、昨夜のような状況を自然に作り出すことに留めようとユリウスは決めた。
アルベールに朝食を食べさせた後、騎士団長としての仕事に向かう彼を見送り。親友の血色が良くなっていることに安堵しつつ部屋のソファに腰を落ち着けたところで。
「……デストルクティオ」
ユリウスの腰下から触手が一本姿を見せた。
「どうした? もしかして親友殿に関して何か知っているのかい?」
デストルクティオという名の星の獣は、以前ならともかく今は何もなければ勝手に出てくることは余りない。言葉を話すわけではないがデストルクティオの過去を知って以来、ユリウスには何となく触手の考えは伝わってくるようになっていた。
質問に返ってきたのは、アルベールがデストルクティオに『俺が居ない時はユリウスを守ってくれ』と言ったというもの。
(上手く説明できないと言っていたが……親友殿の悪夢は、私に関するもの? 私の存在に安堵を覚えるのもそれなら理解できる……ならば……)
自分が危険に近付かず、実験も安全なものだけを選んで行えば。アルベールの心、その負担を少しは軽く出来るかもしれない。
(夜に城の外を散策するのも、再開は延期するとしようかねえ)
ここ暫くは実験で忙しく夜の散歩には全く行っていなかったが、人々が寝静まった後の城下を散策するのはユリウスにとって落ち着く時間だった。だがアルベールが知れば彼の不安を煽ってしまう可能性がある。それは本意ではなく。
故に当分城内でも外でも、危険を避ける行動を心掛けようと考える。相手がアルベールでなければここまで自重しようとは思わなかっただろうが。
「最近、体調は?」
「見てわかると思うが悪くない」
アルベールの答えにユリウスは僅かに口角を上げる。
言葉通り、ここ暫く親友から不調は感じ取れない。一緒に過ごす時間を増やした効果が出ているのかもしれない。
二人が話しているのは騎士団長に与えられた私室、そのベッドの上。寝室の鍵はしっかりと掛けている。
悪夢を見た後のアルベールはユリウスの姿を探し求めている様子を見せ、だからこそたまに同じベッドで眠る時間を取っていたが、この時間もそろそろ一度止めて大丈夫かもしれない。最近のアルベールは悪夢に眠りを邪魔されることもなくなっているようだから。
(ただ少しだけ気になるのは……相変わらず酒に酔えていないこと)
アルベールの体を考え、以前のように長時間二人で飲んだりはしないが、元がそんなに強くなかった事実からすると充分な異常と言える。だがベッドに横になって向き合っている親友の顔色は良く、以前少しだけ落ちていた体重と筋肉も取り戻し健康体そのもの。故にそこまで問題視することでもないだろう。
「そろそろ寝ようか。君、明日は朝早くから遠征だろう?」
「そうだな。寝てたら起こさずに出るからな」
「……私の作った朝食が食べたいなら起こしてくれたまえ。要らないならそのまま出て構わないがね」
アルベールは小さくうっと呻いた後、視線を反らしつつ。なら悪いが起こす、とぼそりと零して。その様子にユリウスは小さく噴き出した。
「っ」
翌朝、ユリウスは思わぬ形で目を覚ました。夢、その中で自分が置かれている状況をはっきりと理解した瞬間、意識が急激に覚醒したのだ。アルベールもほぼ同時に目覚めたようだった。
ユリウスを驚いたように見つめているアルベールの頬は何故か赤い。いささか赤すぎるほどに。そして。
「……おはよう、しんゆうどの」
平静を装って呟いた己の朝の挨拶が酷く拙く。そして頬はアルベールに劣らないほど赤く染まっているであろうことを、ユリウスは感じていた。
「おはよう、ユリウス」
返事を呟いた後アルベールは、どこかばつが悪そうにユリウスから目を反らした。そんな行動を取る理由に、思い当たる節がある。夢の内容だ。
(……もしかして同じ夢を見ていた? というか私がアルベールの見ている夢を共有したのか?)
ならば親友の頬の赤さも理解できる。
夢の中のユリウスはベッドにうつ伏せになっていたからアルベールの姿、その表情を確認できなかったが、あの気配と声は確かに『親友殿』だった。短い夢だったが二人が行っていた行為が何なのかも伝わって来た。……所謂性行為に分類される行動。だからこそ頬を始め体温が上がっている。だが、自分はアルベールとあんな行為をしたことはない。そして夢の中のユリウスがその時抱えていた気持ち、ぼんやりとしか感じ取れなかったそれも。親しい者と体を繋げる際に抱く想いではない気がした。
(甘い感情からではなく……強いて言えば治療、医療行為の際に抱く感情に近かったような気がするねえ……)
恋慕のようなものは伝わってこなかったが、体を許していること自体、同時に心も限りなく許している証拠だろう。そして夢の中ではなく現実の己も医療行為として親友に体を差し出せるかというと。答えは是、だった。
やはりあれは恋人同士の触れ合いの時間ではないだろう。
夢の中、一言二言、聞こえたアルベールの声も覇気はなく、どこか苦しそうで。あの姿がこれからの自分たち、その未来に起きる出来事だとも思えなかった。
「いってらっしゃいませ、親友殿」
少し離れたアルベールの背に向かってユリウスは呟く。普段なら直接伝える言葉だが、今日は夢が原因で彼と至近距離で話すと心が騒めいた。アルベールもきっと似た気持ちだったろう。朝食の時間はいつもより静かで、お互い少しぎこちなく過ごした。
(親友殿がこれから遠征で数日傍に居ないのはこの場合幸いだねえ……おそらく親友殿にとっても)
少し間が開けばまた以前のように親友としての距離感で自然に過ごせるはずだ。
アルベールの足取りはしっかりしているし、朝食も充分な量を食べていた。朝食の間も頬の赤みは完全に治まることはなかったが、それはユリウスも同じ。不調を示すものではない。
親友の体が健全に機能している事実に安堵を覚えつつ、ユリウスは部屋へと戻るために歩き始めた。アルベールの部屋ではなく己の研究室へと。朝食の片付けはアルベールが全て行ってくれたため、彼の部屋に戻る必要はなかった。
[newpage]
遠目に城が見えてきたところでアルベールは一旦足を止めた。部下たちには先に戻って遠征の無事終了を伝えるように指示してあり、この場に居るのはアルベール一人だけだ。城に直行しなかったのはユリウスと再会する前に心を落ち着けておきたかったから。
遠征の前日、ユリウスと同じベッドで眠った際見た夢。それをユリウスも見たかもしれない。ユリウスの珍しく赤く染まっていた頬から、可能性は高い気がした。己の頬はもっと赤かったかもしれないが。
夢の内容が内容だけにあの後少しぎこちなく過ごしてしまい、そのまま遠征に出てきた。数日は『ユリウスとそういう行為をしている』という内容に驚き、その事実にしか目がいかなかった。しかし遠征中幾分冷静になってきた際、夢を思い返した。その中で『アルベール』が苦しそうに胸の内で吐き出していた言葉。
「……こんな形で手に入れたかったわけじゃない」
夢の中の『アルベール』は自分とは違う。ユリウスと過ごしてきた時間、彼との想い出も異なる。けれど根本的な、魂、ともいうべき、自己を築いているものは同じだと感じている。そんな存在がユリウスへの想いを自覚していた。
(……おそらく俺は無意識にこの感情を形にするのを避けていた)
己の中にもユリウスへの想い、友へ向けるには些か相応しくない感情がある。けれどそれに名前を付けることを、直視するのを今まで避けていた。
(……全てを夢で見たわけではないが……)
見る夢の時系列はばらばらで、後から内容が繋がることもよくあった。だが夢の中の『アルベール』はユリウスへの気持ちを自覚し、その想いを告げる準備をしながらも。
伝える前にユリウスの存在を失ってしまったように思えた。
己が遠征前に見た夢、あの時ユリウスはまだ『アルベール』の想いには気付いていなかっただろう。夢の中の『アルベール』の体は熱過ぎたし、それを解消するために体を差し出したというのが事実な気がした。夢の中のぼんやりとした意識の中に、ユリウスからの気遣う言葉も響いていた。受け入れているのは、負担が大きいのは彼のはずなのに。
(……ユリウスはただ俺の想いを伝えるだけでは、俺の気持ちを受け取ってくれない気がするな)
自覚した想いを、いずれは伝えたいとは思う。夢の中の『アルベール』のように後悔しないために。
しかしユリウスでなければ駄目だと、彼が本当に己にとって唯一の存在だと示さなければ、受け入れてくれない予感がある。
夢の中の『アルベール』、彼が『ユリウス』を失った後の姿ならばそれを示せるのかもしれなかったが。己はユリウスに、死ぬことを決意していた彼に、『生きていて欲しい』という自分勝手な願いを押し付けたのだから、ユリウスにそんなものを見せたくはなかったし、己自身も見たくはなかった。この世界とは異なる世界の、既に消え去った可能性だとしても。
夢の中の己がユリウスと過ごした時間、それを見るのは自分たちのこれからの指針にもなりえそうだったから歓迎だが、『ユリウスの最期』の夢だけは見たいとは思わない。しかもそれを齎した直接的な原因が『アルベール』ならば余計に。
けれど他の夢は繰り返さないのに、見たくないと願っているあの夢だけは遠征の間にまた見ていた。約一週間の遠征の中で一度きりだったから、睡眠不足にはならずに済んだのは幸いだ。
(……今はまず、ユリウスに帰って来たと知らせないとな。渡すものもあるし)
脳裏に浮かびかけた夢の内容を振り払い、ひとつ深呼吸をしてから、アルベールは止まっていた歩みを城へと向けた。遠征に出る直前まで親友はアルベールの体調を気遣ってくれていたから、無事な姿を見せるべきだろう。
心を落ち着かせる時間を取りはしたが、親友に会いたいという想いは強くある。遠征前ほど体調は万全だとは言えなかったが、夢を思い出すと多少不安定になるだけで、それはおそらくユリウスの姿を見れば落ち着くはずだ。
歩きながら城下の様子を確認する。少し前までは荒れている場所もあったが、今は新王陛下の治世の元、立ち並ぶ店たちは穏やかな営みを続けている様子が見て取れる。夢の中には存在しなかったその光景は、アルベールの心を落ち着かせてくれる。
(ん?)
馴染みの食堂、己自身もそれなりに利用しているがそれよりも頻繁に親友へ渡すサンドイッチを購入している店、その前に。
ユリウスの姿があった。
「おかえりなさいませ、親友殿」
「……ただいま、ユリウス」
ユリウスは紙袋を抱えている。アルベールがユリウスのために購入する際の袋より大き目のそれには、おそらく二人分のサンドイッチが入っているのだろう。
「店で食べるかい? 買ったばかりだからテーブルも使わせてもらえると思うが」
「いや、二人で落ち着ける場所が良い」
アルベールの返事が予め分かっていたかのようにユリウスは笑んで。
「では城の私が使っている部屋へと行こうか。君が遠征に行っている間に改装が入ってね。以前より過ごしやすくなっていると思うよ」
言葉とともに城の方角へと体を向ける。ユリウスの横に並んだアルベールは、彼の手から紙袋を受け取った。袋の中身から滲む匂いは馴染みのあるやや甘く味付けされた肉のそれで、ユリウスがアルベールのために、自身は好まないカツサンドを注文してくれたのだと知らせてくれる。
そんな些細な気遣いを嬉しいと思うと同時に、自覚した想いがじわりと熱を上げて。触れたいという心を抑え込むのに少し苦労した。
改装されたというユリウスの部屋は、体を休めるための場所も以前より広くなり、調度品のレベル等も上がっていた。遠征前より高級感を感じるテーブルの上にサンドイッチの紙袋を置き。
「そうだ、これを」
腰のベルトに取り付けた小鞄の中から袋を取り出す。
「……おや、君にしては気の利いた土産だね」
透明な袋の中に入った乾燥させた葉を見てユリウスが表情を緩めるのを眺めながら。アルベールはやはり間違っていなかったか、と内心安堵の息を吐いた。
ユリウスに渡した乾燥させた葉は薬の原材料となる。アルベールにその草に対する知識はなかったが、夢でユリウスが使っているのを見たのだ。夢の中のユリウスはこちらの世界のユリウスより草花を元に薬を作っていることが多かった。
夢でユリウスが使っていた、けれど己の『親友殿』が手にしているのを見た記憶がない薬草を遠征先で見掛け、土産としたのだ。 薬草の知識がある村人に確認したところ、薬になるのは間違いなく、また王都付近には殆ど生えていないはずだと聞き、ユリウスが喜ぶのではないのかと思って。
そしてその考えに間違いはなかったようだ。アルベールの瞳に映るユリウスは明らかに先程より機嫌が良く見える。
「部屋の改装、お前が進んでやるとは思えないが」
「……陛下のお達しというか報酬の先払い、らしい」
「報酬?」
「陛下から商品の開発を頼まれてね。それが長く私を拘束するかもしれないから報酬とともにお詫びも兼ねて、と」
広くなったソファに座り、テーブルに置かれたサンドイッチを肴に葡萄酒を味わいながら会話を交わす。内容はお互い離れていた時間について。
部屋の様子が変わった理由を聞きながらアルベールは、ユリウスがゆっくり休める環境は歓迎だが、ソファの横幅が長くなったことでユリウスと密着する機会が減りそうなのは少し残念だなと思う。己がユリウスに向ける感情を理解した故の気持ちかと考えたが、元から、友としても彼の傍でその温度を感じながら酒を楽しむ時間はとても好きだった。だから自覚前でも自覚後でもきっと同じ考えを持っただろう。
「……無理はするなよ。体を傷付けるような危険な実験もだ」
「私主導の実験ではないからね。今回はある程度製作過程も陛下から示されている。危険は皆無に等しいよ」
その言葉に安心する。ユリウスは実験や研究のためなら己の体に無理や無茶を強いたりするが、陛下がユリウスに無理をさせる真似はしないだろう。
陛下が物騒なものをユリウスに頼むはずがなく、おそらく完成すればそれは温泉街の愉しみの助け、または国の平和の維持に役に立つものだろう。レヴィオンの騎士団長として、またこの国の民の一人としてそれらは歓迎するべきものだ。だが。
(……陛下が力を付けることを良しとしない者は未だ居る)
先王派は完全に潰えたわけではなく、ひっそりとその牙を剝く機会を狙っている残党も存在している。そんな者たちにとって、陛下がユリウスに頼んだ産物、その完成は忌むべき事態のはず。
(暫くは今日のようにユリウスとゆっくり過ごす時間は取れないだろうな)
だからこそ、ユリウスも今日はアルベールとの時間を取ってくれたのかもしれない。
(俺はもうユリウスを、親友が傍に居る時間を失ったりしない……そのために)
直接会える機会は少なくなるだろうが、親友を、己の一番大事な人だと自覚した存在を。密かに守るための行動を取ろうと心に決める。
ユリウスはアルベールを過保護だと以前笑っていたが、夢の中の、自分たちと違い今のところ一度もすれ違った場面を見ていない、別離を経験した様子もないはずの彼らの関係は。思い出したくもない出来事だが、アルベールがユリウスを討つという形で終わりを迎えた。
(夢の中の俺たちは、お互い以外に完全には心を許していないように見えた。今のこの国より暮らしにくい場所で、ただお互いだけに心を預け、そして救われていたように感じた。……だというのに)
それを考えるといくら用心してもし過ぎということはない気がした。
「っ」
ふらついた体を咄嗟に壁に片手をつくことで支え、アルベールは細く息を吐き出した。
(まだ誤魔化せる。剣も扱える)
自身にそう言い聞かせ、再び歩き出す。その歩みに先程までの危うさはもう滲んでいない。
時刻は昼少し前、空は雨は降っていないものの雲は厚く時折稲光も走っている。晴れ間の少ないこの国の天候が今は有難い。今の状態で強い日差しを受けてしまえば、体力を奪われてしまうから。
体調不良の原因はよく分かっている。寝不足だ。見たくないと願っているあの夢を、ここ最近頻繁に繰り返し見るようになってしまい、睡眠時間が減っているのだ。
夢を見て心が擦り減った後でも。この世界のユリウスの無事な姿を確認すれば、安心して少しだけ眠ることができる。今もユリウスの姿を求めて彼の研究室へ向かっているところだ。本当はいつもの城下の食堂でサンドイッチを買ってから向かいたかったが、睡眠不足が堪え、今日は外に出る気力がなかった。
「ユリウス」
扉を軽くノックするが応えはない。実験に集中しているのだろう。いつものことだ。ユリウスから実験の最中に声を掛けてこなければ勝手に入ってくれて構わないと、合鍵を受け取っていたから。アルベールは鍵を使って部屋の中に入った。鍵穴と鍵を合わせるには少しコツがいるのだが、すでに何度も鍵を使っているから何なく開けることができるようになっている。
最初アルベールが部屋を訪ねた時、実験器具を置いている部屋の扉は開いていなかった。だが何度目かの訪問の後、部屋を区切る扉は開け放たれ。中のユリウスの様子を確認できる状態になった。
おそらくユリウスはアルベールが部屋を頻繁に訪れているのはいつもの過保護を発揮しているからだと思っているのだろう。体調不良に気付いていれば親友は声を掛けてくるはずだから。
多忙なユリウスにまた心配を掛けるのは本意ではなく、アルベールとしてもそう思ってくれているほうが有難かった。
ユリウスの姿を一目確認した後、ソファへ腰を落ち着ける。部屋の周囲の気配を探るが今日は何者も潜んでいないようだ。
ソファの前のテーブルには『親友殿へ。いつも昼食のサンドイッチを有難う。毎日持って来なくても構わないよ。負担になるだろうしね。今日は朝時間が出来たから久々に作ってみたよ』とメモが添えられた軽食が置いてあった。食欲があるとは言えなかったが、全く口にしないと心配を掛ける。幸い量は多くない。普段アルベールは騎士団の食堂で昼食を終えてこの部屋を訪れることが多いから、それを考慮した故の量だろう。
何とか食べ切ってから目を閉じる。食欲はなかったが、ユリウスの作った食事は美味しいと感じることは出来、その事実に癒された。体力が落ちているからか、最近城で出される食事は不味いとは思わないが美味しいとも感じなくなっていたから余計に。
今日のスケジュール的に三十分ほどは仮眠を取れる。以前一度この部屋に潜んでいた、新王陛下の治世を認めたくない貴族に雇われた暗殺者を捕らえたこともあり、完全に警戒を解いて休む真似は出来ない。それでも自室で一人で悪夢を見る時間と比べたら、体は充分休められる。
今のアルベールにとって、この部屋でユリウスの気配を近くに感じつつ過ごす時間だけが。唯一心と体に安らぎを齎してくれるもの、だった。
(……やはり、か)
食堂で出された朝食のプレート。メインのオムレツを切り分けて口に含んだアルベールは、周囲に悟られないよう静かに溜息を吐き出した。
昨日まで美味しいとは感じられないものの、味そのものは関知できていた。けれど今口に含んでいるオムレツは、存在は感じられるものの味は全く伝わってこない。
半ば予想できたことだ。昨夜見た夢の中で、『アルベール』が似たような状況に陥っていたから。
ここ最近の自分は夢の中のアルベールの状況の中で、特に強烈な印象が残っている出来事を体に写し取ってしまう場合がある。
(夢の中の俺はユリウスが作ったもの以外は吐き出していたが……)
味はしないもののまだ飲み込むくらいはできる。夢と違い口にしているこの食事は騎士団員全てに公平に出されているもので、だからこそ本来は普通に食べれるはずなのだが。夢の中のアルベールの感情、それに引きずられてしまっている今は、周囲に不調を悟られないよう何とか飲み込むのみ、だった。
見た夢は悪夢の類いだが、目覚めた際の気分は最悪とまで行かなかったのは。その後のユリウスと過ごした時間を、彼の『アルベール』への気遣いも夢で見たからだ。
夢の中のアルベールは女性嫌いとまではいかないものの、己より女性への警戒心が強く。昨夜見た夢の出来事の後からは余計に女性への警戒心が高まり、同時にユリウスへの想いを強めていったようだった。ユリウスのほうもアルベールを気遣い、頻繁になっていく訪問を咎めないようになっていた。出会ったばかりの頃は訪問自体歓迎していない様子だったから、大きな変化だ。
夢の中のアルベールが心を許している相手はユリウス、それに離れて暮らす両親だけだったが、それなりに警戒を解いていた人たちは存在する。そのひとつが城の食堂、その厨房で働く人々で。彼らからの裏切りに近い行為は、アルベールの心に大きな傷跡を残したようだ。
(夢と違い、この食堂の厨房には若い女性は居ないし、あんなことが起こるはずもない)
そう言い聞かせてみるものの、食事の味が戻ることはなかった。
味の全くしない食事を飲み込むのは苦労する。数日経っても味覚が復活する様子はなく、故に食堂へ向かう回数が極端に減った。代わりに今、執務室のソファに力の入らない背中を預けたアルベールが口にしているのは。
ユリウスが以前作った、栄養重視で味はいいとは言えない携帯食だ。引き出しの奥に仕舞われていたそれ。これまでは見るたびにその複雑な味を思い出し顔をしかめていたが、今のアルベールにとっては救いだ。何せユリウスが作ったものだから、味を感じることができる。何とも形容しがたい、栄養だけは詰まっているだろうなという味で、美味いとは到底言えない。しかし全く味を感じない食事よりは遥かにましだった。
口の中のものを飲み込んだ瞬間。
「親友殿?」
部屋にノックの音が響く。ユリウスがこの場所を訪れるのは、久し振りだ。アルベールのほうはほぼ毎日、ユリウスの存在を、親友が無事に過ごしている事実を確認してはいたが。
「ユリウス、どうした?」
執務室の壁に埋め込まれた姿見で酷い顔をしていないか確認して、ドアを開ける。幸いまだ不調を悟られるような顔はしていなかった。体重は少し落ちたが、軽く見ただけでは分からない程度だ。
「少しだけ時間が出来たから、一緒に飲まないかと思ってね」
いつの間にか夜と言って良い時間に差し掛かっていて、開け放たれた扉の向こう、城の窓から見える空はすっかり暗くなっていた。
ユリウスの誘いに一も二もなく頷く。元より親友と過ごす時間はアルベールにとって歓迎すべきもので。夢の中の『アルベール』と己が別の存在なのだと、己は彼を失っていないのだと感じられる時間は。今、一番必要としているもの、だった。
「もう少し何か作るかい?」
「……頼む」
横幅の広くなったソファ、その隅には書類と本が積み上げられていたが、敢えて動かさずにその横に座る。塞がれていたスペースを除くと、ちょうど以前慣れ親しんでいたソファの幅と同じくらいになった。肩と肩がたまに触れ合う程度の距離で、アルベールは出された葡萄酒とつまみを味わっていたが、つまみの皿はすぐ空になってしまった。つまみはユリウスのお手製で、久々に美味しいと感じる料理を前に、食べるスピードがつい上がってしまっていたのが原因だ。
少し待っていてくれたまえ、と立ち上がるユリウスの背を見送る。まだ完全には忙しさからは解放されていないのだろう。話に聞いた陛下からの頼まれものはひとつではなく、あらゆる方面で複数に渡っていて、一大プロジェクトとも言えるものだった。故に当然かもしれない。身だしなみに気を遣っているはずの親友の髪は少し乱れていて、表情にも僅かに疲れが滲んでいた。だが足取りはしっかりしており、その事実に酷く安堵を覚える。
ユリウスが追加で作ってくれたつまみとともに葡萄酒を味わった後。
アルベールは久し振りにユリウスと同じベッドに入った。ソファと同じくベッドにも変化があり、サイズが以前より大きくなっていた。
医務室ほどではないが二人で寝るに苦労しない広さになっただろう? と笑うユリウスにそうだなと頷いて目を閉じる。想いを自覚した相手と同じベッドに入っている事実に、すこし浮ついた気持ちもある。けれどそれ以上にユリウスの体温を傍に感じられる状態は、不安定になり疲弊していた心と体を癒してくれて。
その日アルベールは久々に、夢も見ず朝までぐっすりと眠った。
「ユリウス様、いらっしゃいますか?」
控えめなノックの後、ユリウスの耳に届いたのはマイムの声。彼女が私の所を尋ねてくるのは珍しいねえと思いつつ、椅子から立ち上がり部屋の入口と向かう。
扉を開け、マイムから少し話がしたい旨を伝えられ、話す場所はどこが良いかと尋ねると。少し間があった末にこの部屋でお願いできますか、と遠慮がちに伝えられて頷いた。
ユリウスの部屋を訪れる者の数は多くない。騎士団関係の書類はアルベールが直接受領の窓口になっているし、基本研究に掛かりきりで奥の部屋に閉じこもっていることが多い。故に訪れる理由がある人が余り居ないのだ。良く訪れるのはアルベールくらいだ。そんな部屋を話の場として選ぶのだから、余り他に聞かれたくない用件の可能性が高い。
温泉地のさらなる発展を目指してユリウスを始めとした関係者は忙しない日々を送っているものの、国や周辺国の情勢自体は落ち着いている。故にマイムの要件が何かは分からなかったが、彼女の表情から余り良い話ではなさそうだと見当をつけつつ。ユリウスはマイムをソファに促し、飲み物の準備をしてから彼女と向き合った。
テーブルの上に置いたグラスに入っているのは冷えた葡萄ジュース。飲み物に対しての礼を告げたマイムがグラスを手に取り、三分の一ほどを口にしてから話し始めた。まじめな彼女にしては珍しい行動だが、喉を湿さなければ話し難かったのかもしれない。
「……ユリウス様は最近アルベール団長と食事を共にしたことは?」
「少し前まではそれなりに一緒に過ごしていたが、最近はまた私の研究が立て込んでいたから暫く一緒に食事はしていないねえ。週に一度ほどほんの短い時間、葡萄酒と軽いつまみを楽しんだりはしているがね。……食事なら君たちのほうが一緒に取る時間が多いのでは?」
アルベールは基本騎士団の食堂で食事をとっているはずで。いかにも騎士のための、体力や筋肉をつけるためといった感じで作られた食堂のメニューはユリウスの好みには合わない。だから葡萄酒を共に楽しむことは多くとも、食堂で食事を一緒に取ることは殆どない。アルベールはユリウスの昼食用にサンドイッチを届けてくれていて、自分用のサンドイッチも買って来て一緒に食べることはたまにあるが、それも回数はそう多くなかった。その上ここ最近はユリウスが実験に没頭している間にアルベールがサンドイッチを置いて去っていることが殆どだ。
そんなことを思っていると、マイムが続きを話し始めた。声音に心配を強く滲ませて。
「実はここ暫く、食堂でアルベール団長を見掛けていないのです」
最初、マイムはただ自分と時間が合わないだけだろうと思っていたらしい。だが流石に一週間全く姿を見掛けないとなると気になってくる。そこで自分と食事の時間がずれることも多々ある妹たちに、最近団長を食堂で見掛けたかと尋ねると、二人からそういえば見ていないと返って来たのだという。その後他の騎士団員たちにも聞いて回ったところ、やはり一週間前くらいから、アルベールを食堂で見掛けた者は居ないという結果が出た。遠征等の予定は入っていないというのに、食堂で食事を取る団長の姿を見た団員が居ないのだ。
「それでユリウス様のところで食事をしているのではと思ったのですが……そうではなさそうですね」
「……城下の食堂などに食べに行っているのなら良いが、親友殿が一週間も連続で外食するというのは考えづらいねえ……」
しかもユリウスに一度も何も伝えずに、となるとますます考えられない。城下の食堂、特にサンドイッチを作ってくれたあの店で食事を取っているのならば、昼のサンドイッチの配達時か、葡萄酒を楽しむ時間にでも彼から話があっても可笑しくはない。むしろあるべきだと思う。
「つまり今の親友殿は殆ど食事を取っていない可能性が極めて高く、マイム君はそれを心配していると」
「はい、その通りです」
それに、少し気になることが、と前置きして。マイムは一週間以上前、アルベールが城の食堂で食事を取っていた時の様子を教えてくれた。基本好き嫌いがなく何でも食べるアルベールなのに、その日は何故か、テーブルの上に置かれた料理をじっと見つめつつ、鈍い速度でフォークを口に運んでおり。咀嚼する様子は何だか辛そうに見えた、と。
「夜の葡萄酒のつまみを彼の分だけ、少し栄養のあるものに変えよう。今日彼から誘いがなければ私が誘ってみるつもりだ。その時間にそれとなく不調がないか聞き出してみるよ」
ユリウスの提案にマイムがほっと息を吐き出し、有難うございます、と深く頭を下げる姿を見守り。その後は彼女と温泉街のこれからの展望を話し合い、女性目線の意見を聞き出しながら過ごした。
部屋から送り出す際、マイムの表情は幾分明るくなっていて、それを見てユリウスは小さく笑んだ。
(さて、問題は親友殿だねえ)
少し前は彼の顔色の悪さを気にしていたが、最近はもう大丈夫だと思っていた。同じベッドで眠った際、魘されて起きる彼の姿も見ているが、そういう時の彼はユリウスに夢見が悪かっただけだと伝えてきたし、食事に関してはユリウスの前ではよく食べよく飲むいつもの親友殿だった。
だが流石に一週間食堂で食事を取っていない、ユリウスとも食事を共にしていない、というのは明らかにおかしい。
(まずは食材の買い出しだねえ)
今手元にある材料では軽いつまみ程度しか作れない。まともに食事を食べていない可能性が極めて高いアルベールのために、栄養のあるもの、けれど余り胃に刺激を与えないものをと思案して。ユリウスは頭の中でメニューを纏めていった。
(おや……)
買い出しを終えた後、城に戻ったユリウスは何とはなしにその足を食堂へと向けた。アルベールが居る可能性は低いだろうが、それならそれで食堂自体に可笑しな点はないか確認しておきたかったのだ。しかしユリウスの予想を裏切って、食堂にはアルベールの姿があった。何故か目立たない隅の席にひっそりと。
夕食の時間には幾分早く、団員達も数える程度しかいないが彼らは一つのテーブルにまとまって雑談をしていて、片隅に居る騎士団長の存在には全く気付いていないようだった。またアルベールも彼らには全く意識を向けておらず、その瞳はただテーブルの上の食事に向けられている。
ユリウスは敢えて食堂に足を踏み入れることはせず、開け放たれた扉の影になっている部分から、親友の様子を窺った。
(……あまり好意的な視線、とは言い難いねえ)
作り立ての湯気を立てるステーキはアルベールの好物だったはずだが、今の彼の表情からは全くそれを感じることはできない。手にしたフォークはステーキには向かわず、付け合わせの揚げ芋へと向かい、それを口に含んだ直後。
(え?)
アルベールは手のひらで唇を抑えた。まるで吐き出すのを阻止するかのように。
流石に黙って見ていられなくなって、ユリウスは足早にアルベールの元へ向かう。雑談をしていた団員の中にユリウスの見知った顔はなかったが、自分たちより立場が上の者だとは分かるのだろう。緊張した面持ちで頭を下げる彼らに向かってこちらは気にしなくていいと軽く手を振り、歩みを速めた。
「脂の乗ったステーキは私の好みではないけれど、付け合わせの芋料理は以前食べた時私にとっても悪くなかった味だし、そもそもそんな顔をして食べるようなものとも思えないんだがねえ、それら全部」
「っユリウス!」
アルベールがこちらを向いたのを確認して、その耳元に小さく囁く。何か、薬でも入っているわけではないんだろう? と。小声ですぐに薬など入っていない、いつも通りの食事のはずだと返ってきて安堵する。だが続いて告げられた内容に吐いた安堵の息が固まった。
「俺の体と心が受け入れられなくなってしまっているだけだ。……俺が悪い」
「……詳しく聞かせてもらえるかい? ここではなく私の部屋で」
「そう、だな……お前にまた心配を掛けたくなかったが……。お前の前ではいつも通りの俺で居られたと思ったんだが……マイム辺りに気付かれたか?」
「ご名答。君の体を案じるマイム君が私に相談に来た」
「そう、か」
「前の不調はもう治ったと思っていたんだがねえ……」
「……お前の気遣いであの時はだいぶ良くなったが……完全に原因が消えたわけじゃなかったからな」
アルベールは複雑な、焦燥や安心、不安、それらが入り混じったような苦笑を浮かべた。
「これ、部屋に持って行っても構わないかい?」
アルベールの食べていた食事のトレーを持って、厨房に声を掛ける。
「ええ、勿論。それは団長様の分でしょう? ユリウス様にも何かお作りしますか?」
「そうだね、料理ではなく少し食材を分けてもらうことは可能かな?」
「構いませんよ、何が必要ですか?」
厨房の責任者である恰幅の良い女性はユリウスの言葉に笑顔で頷く。ならばとじゃがいもと人参を少量分けてもらい。代金は後日払うよと告げると。
「必要ありませんよ、ユリウス様は滅多に食堂に食べに来られませんし。騎士団員の給金から食べても食べなくても食事代が引かれていること、ユリウス様ならご存じでしょう? 何なら定期的に食材を提供してもいいくらいですよ」
笑みを深めた女性からそんな言葉が返ってきて。
「はは、有難う。今回はお言葉に甘えるよ」
礼を告げてからユリウスはアルベールを伴って部屋に向かった。研究室兼私室部は陛下からの支援で改装された際、キッチンもしっかりとした造りの物に代わっている。
ユリウスが持っていたトレーは、俺の食事だからと呟いたアルベールの手へ移動していた。
「それで、一週間も食堂に姿を見せなかった理由は?」
キッチンの扉を開け放ち、コンロの上の鍋をかき混ぜながら、ソファに座ったアルベールに声を掛ける。作っているのは牛肉の煮込み。先ほど買ってきた牛肉の他に、厨房で分けてもらったじゃがいもと人参が入っている。普段は香り付けに葡萄酒も入れるが、今日は親友の体のことを考えて入れず、また味付けもやや薄味にした。
アルベールからの答えはない。彼はソファにもたれて目を閉じている。ただ元よりすぐに返事が来るとは思っていなかった。夢見が悪いというのは以前に聞いていても、その詳しい内容は聞かせて貰っていなかったから。一度だけ夢を共有したことはある。だがそのユリウスも見た夢に関しては今の事態に無関係だと思って良さそうだ。
しかし今回の彼の不調にも『夢』が関係しているのはほぼ確定だろう。それ以外に彼の心が憂う要因など、今のこの国にはないはずだから。
出来上がった煮込みを皿に移して、ソファに座るアルベール、その前に設置されたテーブルに置く。
「食べられるかい?」
「……お前が作ったものは食べれる」
(私が作ったものは?)
まるでそれ以外は食べられないと示すような言い草に疑問を覚えたが、とりあえずまともに食べていないであろう親友に栄養を取ってもらうのが先決だ、と。ユリウスはアルベールがスプーンを口に運ぶ様を見守った。
「まだ食べるかい?」
「いや、もう充分だ」
食事を作ってくれたことへの感謝と味への賛美をユリウスに伝え、アルベールはグラスの水の残りを一気に喉に流し込んだ。
「……少し休むかい?」
本当は事情を聞き出したいだろうに、体を気遣ってくるユリウスに首を横に振る。時間を置くより今話してしまったほうがこれ以上の心配を掛けずに済むだろう。
夢の内容、今食事を取れなくなっている理由をユリウスに告げる。ユリウスを失うあの夢の内容だけは避けて。
夢の中の己がとユリウスの作ったもの以外は食べれなくなっていて、自分もそれに引きずられてしまっていること。それ以外にも夢の中の『アルベール』の想いに引き摺られ、同化しかけてしまっていること。そしてそれらが原因で抱える不安は、ユリウスの姿を見れば、彼が傍に居れば落ち着くことを伝えていく。
「……落ち着いてきているとはいえ、国の全てがまだ陛下に従っているとは言えない今、君の不調が諸侯に漏れるのはまずい。君が騎士団長の地位に付いているからこそ、陛下に従っているかつては先王派だった者たちもそれなりの数居るからね」
「……ああ、それは俺も感じている。だがまだお前たち以外に俺の不調に気付いている者は居ないはずだ」
「陛下やマイム君たちと相談して、君が不在でもおかしくない状況を作り上げよう。そしてその間に、君は体を治すこと」
「……努力はする。だが……」
ユリウスの存在が傍にないと、この不調は悪化する。ユリウスが鍵なのは以前の状態や先程の話で伝わっているとは思う。だがまだ多忙なはずの彼に、傍にいて欲しいと直接口に出して告げるのは憚られた。だが。
「私も出来る限り君の傍で過ごせるように努力しよう」
ユリウスからはすぐにそう返ってきて。アルベールは小さく「有難う」と呟いた。大きな安堵とともに。
「問題なのは君が休む場所、か」
私の私邸は一部の人には知られているし、と目の前で考え込み始めたユリウスを見て、アルベールの脳裏にはある場所が浮かんでいた。
密かに、ずっと先の未来を見据えて購入していたある家。
(……なんだ、形にするのは無意識に避けていたと思っていたが……)
俺はずっと前からユリウスと二人で、共に人生を歩みたいと考えていたんじゃないか。そのための場所まで用意して。
「……おそらく誰にも知られていない俺が買った家がある。城からほどほどの距離があるし、周囲には家もない」
「……君が家を買っていたなんて知らなかったよ」
「誰にも言っていなかったからな」
すぐに使えるほど整ってはいないだろうが、管理自体は頼んでいて、月に一度は掃除の業者も入っているから数日準備をすれば使えるようになるはずだ。
「では場所はそこにするとして。……私は陛下たちと相談してくるよ。おそらく団長殿は少人数の精鋭部隊を連れて長期の遠征に出たという形になるだろうが。……話を纏めるのに暫く掛かるだろうから、その間君はベッドでゆっくり体を休めていたまえ。この部屋の、私のベッドのほうが落ち着けるだろう?」
ユリウスは足早に部屋から出ていく。その姿を見送りドアを閉めた後、アルベールはユリウスの言葉に従い寝室へと向かい、ベッドへと仰向けに身を投げ出した。
長時間使われていない様子のベッドは冷たかったが、部屋の調度品の趣味や机に置かれた書類はユリウスが使っている場所だと確かに感じさせてくれて。
それが齎す安心感に包まれながらアルベールは、久々に訪れた眠気に逆らわず瞼を下ろした。
「……誰か、結婚を考えている女性でもいるのかい?」
ひとしきり部屋を見て回ったユリウスが、アルベールに向かって最初に告げた言葉。
「いや、そんな相手はいない」
結婚を前提として付き合っているような女性は存在しないが、全てが二人用に整えられている部屋を見て、ユリウスがそんな感想を零すのも無理はなかった。
(いつか騎士団を引退したら、ユリウスと二人でこの場所で暮らしたい、そう思って購入した家だ)
「まあ二人用というのは今後の暮らしを考えても都合は良いがね。私は食材の整理をするから君は衣類のほうを頼むよ」
「ああ、分かった」
追及されたらいつかお前と二人で暮らしたいと思って買った家だと言ったかもしれないが、それ以上の追及はなく。アルベール自身も今はまだその時期じゃないと考え、荷物の整理へと向かった。
今日からこの家で、ユリウスとの生活が始まる。
不調を早く治して復帰したい気持ちは強くある。ユリウスの存在が傍にあればある程度は良くなるだろう。だが同時に。あの夢を見なくなるような、夢の世界のアルベールに何か大きな変化がなければ。
自身の不調は完全には治らない予感もあった。
「……ユリウス、それは」
翌朝、アルベールが目覚めた際同じベッドに入ったはずのユリウスの姿は既になく。気配を追っていくとキッチンから続く部屋に彼は居て。
アルベールが贈ったユカタヴィラを身に着けていた。長い髪は左側に寄せた状態で緩く編み込まれている。
「陛下からの頼まれごとが全て終わったら、君と二人で国の外ででもゆっくりと休息をとるように言われていてね。その時に着るつもりだったんだが、暫くその機会はなさそうだから」
「……似合っている」
「ふふ、有難う。君してはセンスが良い柄だと思っているよ私も」
黒に近い濃い紺のユカタヴィラ、その生地にはよく見ないと分からないが落ち着いた色の銀糸と金糸で蝶が刺繍されている。
(……夢の中のユリウスがユカタヴィラを身に着けている姿は一度も見ていないな)
彼らはあの国から出たことがなさそうだったから、それも当たり前かもしれない。だが夢の中の彼らと、目の前の己の親友である『ユリウス』のはっきりとした差異。
それは夢に引き摺られているアルベールの心を大きく癒すもの、だった。
「っ」
ユリウスと暮らし始め、毎食とまではいかないが彼の作る食事を食べる機会が多くなり。夢を見る回数も減っていて、特に一番見たくないと願っていたユリウスを失う夢は全く見なくなっていたのに。
その夜、久々にその悪夢を見て、アルベールは飛び起きた。
(ユリウス……)
ユリウスは同じベッドに眠っていて、その小さく開いた唇からは微かに、けれど確かな寝息が零れている。
普段ならその様子だけで安心できたが、久々に悪夢を見てしまった後の心はそれだけでは落ち着かず。
指で彼の頬にそっと触れ、そこから確かに温度が伝わってくるのを感じてから、詰めていた息を漸く吐き出した。
壁掛け時計はまだ朝にはほど遠い時間を示していて。アルベールは再び横になる。だが眠りに落ちてしまえば、またあの夢を見てしまいそうで。
目を閉じることは出来ず。結局ユリウスが目覚めるまでその寝顔を眺めて過ごした。
(……食事は何とか取れる。だが相変わらずユリウスが作ってくれる料理しか味を感じない)
以前マイム達が見舞いにと外で購入したパンやクッキーなどを持ってきてくれたことがあったのだが、それらは相変わらずアルベールの舌に何の味も残さなかった。
睡眠のほうは余り取れておらず、体が弱ってきているのを感じる。
あの日、ユリウスを失う夢を久々に見て以来、夢の内容が少し変わった。今までユリウスを失った後の様子を夢で見ることはなかったが、あの日を境にその後も夢に現れるようになり。ただ事務的に、感情のない機械のように騎士団長としての任務をこなす『アルベール』が夢の中に居た。
ユリウスは今日、城に出掛けている。普段アルベールが行っている執務はマイムが肩代わりしているが、ユリウスの立場からしか処理できない書類が溜まっていて、それらを処理するためだ。そう時間は掛からないと言っていたから、おそらくもうすぐ戻ってくるだろう。
くらりと眩暈とともにベッドに倒れ込む。最近の己は殆どを寝室で過ごしている。
朝は気付かなかったがベッド横のテーブルには見慣れたトレーが置かれていて、ドームカバーに覆われているため内容は見えないが、多分城の食堂で出される食事だろう。この家の場所を知っているのは極一部の人物だから、マイム辺りが持ってきたのかもしれない。
心遣いを無駄にしてしまっていることを心の中で謝りながら、アルベールは半ば気絶するように眠りに落ちた。
(……同化しない?)
見ている光景が夢だとはすぐに分かったが、いつもは夢の中のアルベールと意識が同化するはずなのに今日はそれがない。まるで空気の中に溶け込んでいるかのように、夢の中の『アルベール』の様子を観察出来ている。そういえば初めて夢を見た時は同化はしなかったなと思い出した。
『アルベール』が話しているのは。
(陛下?)
今までの夢の中では殆ど登場しなかった人物だ。夢の中の新王陛下は『第一王子』という立場で、ユリウスが兄だとも知らない。故に夢の中のアルベールともユリウスとも関わりの薄い人物だったはず。
第一王子は無邪気とも言える表情でアルベールに話し掛けている。だがアルベールの顔に特に表情は浮かんでいない。
(……これはユリウスを失った後、だな)
第一王子が口にした『ある言葉』が、夢の中のアルベールの心に大きく突き刺さり。そしてその瞬間おそらく『アルベール』の心は完全に壊れた。
第一王子が去った後、アルベールはユリウスを失って以来手にしていなかったその剣に手を伸ばす。
(……それは、駄目だ……!)
夢の中の『アルベール』と、自分の立場は大きく違う。故に本来は止める資格などない。夢の中の世界にユリウスはもう存在せず、そして先王は生きている。故に『第一王子』が何気なく告げた言葉が、『アルベール』の心の闇を深くするものだったとも理解できる。己だって同じ立場になれば、その行動を取ってしまった可能性は限りなく高い。けれどここ暫くの、新王陛下とユリウスの交流を見守って来た身としては。夢の中の『アルベール』の行動を止めたいと思ってしまった。
(これはユリウスに生きて欲しいという願いを押し付けた時のような、俺のエゴ。自分勝手な想いだ。だが俺と違ってユリウスと一度もすれ違っていない、親友の存在を大事に守って来た『アルベール』が何故ただ暗闇に向かって、全てを破壊する決意とともに歩かなければならないっ)
彼にとっての僅かな救いが、演算世界の『ユリウス』の彼への想いがどこかに残っていないのか……。
夢の中の己の行動を止めようとして、アルベールは手を伸ばす。と言っても今の自分は無色透明で形もなく。何もできそうにない。
無気力感と同時に酷い頭痛が襲ってくる。夢の中で酷い痛みを感じたならば目が覚めそうなものだが、その気配もなく。
アルベールの意識は四散していった。
(私が作るもの以外、相変わらず手を付けない、か。顔色も余り良くない)
ベッドに横たわり目を閉じているアルベールだが、その眠りは穏やかなものとはいかないようで。時より魘されていて、生気がなくなってしまった頬に汗が伝っていく。ユリウスはその汗を冷えすぎない程度に濡らした布で拭き取り、頬に張り付く髪を指でやんわりと払った。
城から帰ってアルベールがベッドで眠っているのを見付けた時、彼がここ暫く眠れていないのを知っていたから安堵したのだが。その安堵は彼が魘されているのに気づいた瞬間消し飛んでいた。
ベッド横に備え付けられたテーブルには、マイムが運んできた食事が手付かずで残っている。今のアルベールはユリウスが作ったものしか口にしないのだが、それを周囲には伝えていない。それにマイム達の気持ちを無碍にする気にもなれなくて、運ばれてきた食事はとりあえず彼に見えるように置いていた。もしかしたらそのうち食べる気になるかもしれない、そうなって欲しいと考えて。
アルベールが見ている夢、それは彼と同じ寝床についた時、ユリウスも何度か見ることが出来ていた。夢の内容を話したくなさそうなアルベールから無理に聞き出す真似をせずに済み助かっていたのだが、ある日を境にいくら彼の近くで眠っても夢を見ることがなくなってしまった。その理由には思い至っている。
(親友殿の見ている夢の時間軸に私が存在しない、からだ)
ユリウスが最後に見た夢、それは自らがアルベールの剣によって貫かれる光景。アルベールはその場面の夢だけは何度も繰り返し見ているようだが、ユリウスがその夢を見たのは一度だけ。その際、自分の表情には安堵の色が濃くて。あの世界の『ユリウス』にとってあの終わりは絶望ではなく救いだったのではとすら感じられた。
(でもそれは、置いていく側だからこそ、だろうね)
残される側だったらユリウスもきっと今のアルベールのように苦しんだ。だが、アルベールが見ている夢はこの世界の話ではないのだ。演算世界、あったかもしれない可能性の世界の話。その出来事を夢で見て、アルベールは苦しんでいる。根本となる魂は同じ存在ではあるだろうが、彼ではない彼が過ごした時間、その過程、その結果を、まるで自身のもののように、その体と心に移し取ってしまっている。
演算世界の『可能性』、その存在が現実世界に侵食してきた話は、グランたちから少し聞き齧っていた。
今のアルベールの、演算世界で起きたかもしれない出来事の夢に苦しめられている状況、これも。
……一種の演算世界からの侵食ではないのか。
ユリウスがその考えに至った瞬間。
(これは、一体?)
部屋の中の気配が急に変わった。
「親友殿?」
目が覚めたのかい? という続きは声にならなかった。
いつの間にかベッドに身を起こしていたアルベールがユリウスの瞳に映るが、その姿に何故か強い違和感を覚える。
「……この場所はもう棄てたはずだ」
酷く硬い、温度のない低い声。
先ほどまでそこに寝ていたのはユリウスの『親友殿』だったはずなのに。
今目の前に存在する『彼』は姿かたちこそ同じだが、纏う重い空気、昏く淀み何も映していないかのような虚ろな瞳は。
ユリウスがともに過ごしてきた『アルベール』とは全く異なるもの、だった。
(!……君は出てきては駄目だ)
ユリウスの緊張を感じ取ったのだろう。デストルクティオがその触手の体を覗かせようとしたのを押し留める。
ベッドの上の『彼』はおそらく『ユリウス』には危害を加えない。だがデストルクティオが出てくればどうなるかは分からない。ユリウスの親友殿とは違い、『演算世界の彼』はデストルクティオを化け物と呼んでいた。強い憎しみを滲ませた声で。
(親友殿も最初はデストルクティオをあまり良くは思っていなかったが)
今ではデストルクティオにユリウスを頼むと言い残していくことすらあるくらいだ。
「…………ユリウス?」
『彼』は今初めてユリウスの存在に気付いたようで。瞬間、昏いその瞳に仄かに光が灯る。
「ユリウスっ」
ベッドから降りた彼は覚束ない足取りで駆け寄ってきたが。伸ばされた腕はユリウスに届く直前、力なく下ろされた。
「……俺の親友殿ではないんだな」
消え入りそうな呟きとともに。
『綴られた想いの涯てに・1章』夢と現実の交錯END
続きは12/17発行の本にて(1章でアルベールが見ていた夢の内容は、2章の『演算世界のアルベール視点』の話の中で分かるようになっています)。
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