「月や星を求めても」 本文サンプル(WEB掲載分)
【1】
「……っ」
バサバサと音を立ててユリウスの手元から書類が落ち床に散らばる。
力が抜けた原因は体の奥に急激に湧き上がった熱。今までに感じたことのなかったそれの正体を考えて。
(まさかっ)
書類を拾うのも忘れ、自身の体を掻き抱いた。
この歳まで一度も訪れたことのない、ユリウスにとっては忌まわしき体質の象徴。
バース性という第二の性別。その中で……オメガの証であるヒート。所謂発情期。
多少の個人差はあるが一般的にオメガがヒートを迎える年齢に至っても、ユリウスにそれが訪れることはなく。王族と異物ならばオメガとしても不完全かと自嘲していたものの、ヒートが来ないのは自分の居場所を考えると有難くもあった。
養父母である公爵家の人間から追いやられるようにして所属した騎士団には、アルファ性の人間しか居ないのだから。
基本アルファ性を持つ者しか騎士団に所属できない。けれど養父母はユリウスのバース性をアルファと偽って騎士団へと強引に入れた。元から武力では実父から期待はずれとされた身、騎士団での暮らしも苦しいものとなると思っていたが。前の騎士団長はユリウスが研究のために部屋に籠もるのを黙認してくれていて、公爵家で過ごすよりは随分と心安らぐ時間を送ることができた。その安らぐ時間はある人物と出会うことによって一時脅かされたが、紆余曲折あり、今はその相手と親友殿と呼び合う仲に至っている。
(もうすぐアルベールが……)
その親友、今は騎士団長でもある彼がこの部屋をもうすぐ訪れることになっている。彼は当然アルファだ。
(薬など用意していないっ)
普通オメガはヒートを抑える薬を常備しているものだが、ユリウスは20歳を過ぎても数年間ヒートの経験がなかったため、薬の必要性を感じず抑制剤は常備していない。
まさか24歳に至って初めてのヒートが来るとは想像もしていなかった。
(……なんとか誤魔化さなければ)
オメガだとばれてしまえば、今はもう唯一の掛け替えのない居場所となっている、心の拠り所ともなっているこの騎士団での生活を失いかねない。
ユリウスは重い体を引きずって書類をなんとか拾い集めた後。ソファに横たわり、仮眠用に使っている毛布を頭まで被った。扉の鍵をかけるような余裕はなかった。というより、今の状態ではそこまで辿り着けそうになかった。
毛布の下で目を瞑って、己の体、その奥から湧き上がる熱に耐えながら。
ユリウスはもうすぐ訪れる親友が気付かないことを、誤魔化されてくれることを祈った。
「ユリウス?」
ドアをノックして、いつもはあるはずの親友からの返事がなく、アルベールは僅かに首を傾げる。留守かとも思ったが、この時間に自分が訪れるのはユリウスもよく分かっているはず。よほどの急用でもない限り、彼がこの時間に用事を入れるとは思えなかった。
(鍵は……開いているな)
扉はかちゃりと音を立てて抵抗なく開く。中に足を踏み入れようとして。
「!」
強い匂いを感じ思わず足を止めた。
嫌な匂いではない。強く漂っているが不快感はない。花の蜜のような甘い匂い。心地よさすら感じる。けれど同時にこの香りを嗅ぎ続けるのは危険だとも体が本能的に訴えている。
(この匂い、ここまで強いものではいし、この匂いのように心地よさなどなかったが似たようなものならどこかで……!)
己の記憶を探って、そして出た答えに、アルベールはいやそんなはずは、と首を横に振る。
(騎士団に所属する者のバース性はアルファのみ。種類審査でアルファでなければその時点で入団資格がないとみなされる。なのにどうして……)
アルファが感じるオメガの発情期の匂い、それとよく似たようなものがこの部屋に漂っているのだろうか。
「ユリウス!」
いろいろ疑問はあるがまずは部屋の主に会うことが先決だ、と。アルベールは後ろ手でドアを閉めつつ親友の名を呼ぶ。部屋のどこにいても届く大きさで。
(そこか)
返事はなかったが、代わりにソファの上の毛布が盛り上がっているのが見て取れた。
(……ユリウスなのか? この匂いの原因は……)
ソファに近づくにつれて、匂いは更に濃く強くなっていく。まるで体に纏わりつくかのように。
ユリウスと初めて出会った時、騎士団所属とは思えない、そしてアルファにはとても見えない細い体に驚いたが、その後彼の頭脳により生み出されたものの数々を見て、確かにアルファだと認識を改めた。だというのに何故。
彼がこんな匂いを漂わせているのか。
己の記憶違いなら、この匂いがオメガの証でないと彼が言うのならばそれで良い。この身にとって今までオメガの匂いというものは不快なものでしかなかったのだから、それらとは別物だと納得できる。アルベールが今までに出会ったオメガというのは、強引に体の奥の熱を引きずり出される不快なだけの匂いを持つも者たちだった。こちらの意思も関係なしにこの身が持つアルファの血、それを引く子を求めて襲いかかってくるような浅ましい者たち。だからこの匂いがオメガのそれとは違うと彼から言われればきっと納得もできる。
「ユリウス?」
手に抱えていたサンドイッチをソファ前のテーブルに置き、毛布の塊を上から覗き込む。
頭まですっぽりと隠した彼は、毛布の向こうで僅かに震えているような気がした。
「……親友殿、今日はあまり体調が良くなくてねぇ……あまり顔も見られたくないからこんな格好で悪いね」
毛布の下からくぐもった声でユリウスが呟く。声音は普段の調子に近いが、語尾が微かに掠れていた。
「そうか」
サンドイッチ、テーブルに置いてるから良くなったら食べてくれ、と伝えて。
アルベールはユリウスが寝ているソファから足早に離れて部屋の扉を閉めた。
(……違うと言ってくれなかった。匂いについて教えてくれなかった。……ユリウスは……おそらくオメガだ)
彼の香りを不快に感じなかった理由は分からない。けれどそれはアルベールの心に安堵は齎さない。何故なら。
(……襲ってしまいそうだったっ……)
ユリウスが毛布を被っていなかったら、その肌が一部でも見えていたら。
強引に抱いてしまっていたかもしれない。
今まで出会ったヒート期のオメガに、熱は引きずり出されはしても自分から手を伸ばしたくなったことなどないのに。
(……ユリウスがオメガなら)
この場所は彼にとって危険が多すぎる。
何よりも自身がそのうち彼を強引に抱いてしまうかもしれない。親友と呼べる存在である彼を。
そんなことが起こる前になんとしても彼を騎士団から遠ざけなければ。
熱を持ったままの下肢を落ち着かせるために水のシャワーを浴びようと歩く速度を早めながら。
アルベールはユリウスを騎士団から遠ざける手筈を考える。
親友である彼の身を大事に思うからこそ。己のアルファとしての欲で彼を汚してしまわないために。
(……誤魔化されては、くれなかったか……)
机上の書類を見て、ユリウスは深く息を吐く。
運び込まれる書類の量が随分と減った。最初は体調が悪いと伝えた己への気遣いかとも思っていたが、部屋の外に出れる程度に回復してからも任される仕事は減ったまま。
元から体調不良などではなく、原因はヒートだったが。そのヒートも一週間ほどで完全に収まったし、薬も手に入れていた。
騎士団はアルファのみで構成されているが、出入りの業者などにはオメガのヒートの影響を受けないベータも居る。全体的に商人はベータの割合が高い。幸いユリウスの部屋に出入りする業者にもベータが居て、彼に中身は詮索しないでくれと手紙を託し薬屋で買い物を頼んだのだ。オメガのヒート抑制剤は割とどこにでも売っている。薬屋なら確実に取り扱っていて、かなり多めの金を握らせたベータの業者は、すぐに薬を手に入れ持ってきてくれた。抑制剤以外にいくつか頼んだものもきっちりと届けられていた。薬はかなりの量あって、これからしばらくヒートを迎えても耐えられるだろう。しかし。
(いつまで私がここに居られるのか……)
アルベールは恐らくユリウスが担当している仕事を他に割り振り始めている。この身を騎士団から憂いなく遠ざけるために。彼のことだ、きっとそれが親友を守ることにもつながると思っているのだろう。
(私はここに居たい……私にはここしか居場所などっ)
公爵家に戻されでもしたら、オメガとしてのヒートを迎えてしまった今、己の扱いは最低なものになるのが容易に想像できる。高位貴族のアルファの中には、オメガをコレクションにように扱っている者も多い。
この場所を失わないために、しがみつくために何をすればよいか考える。
(……アルベールは置かれている境遇もあってオメガにあまりいい印象を抱いていない)
騎士団長という地位を持ち実力と容姿も備えたアルファであるアルベールの元には、貴族の息のかかったヒート期のオメガがよく訪ねてくる。オメガたちの目的は彼の血を引く子供を身籠ること。優秀なアルファにオメガが複数群がることはこの国では当たり前でもあるが、アルベール自身はその状況を歓迎していないし彼は驚異的な精神力でオメガの誘惑を退け、誰とも体を重ねたことはないようだ。酒の席でアルベールは好きでもない相手に熱を引きずり出されるのに辟易するとユリウスに零したこともあった。
(だからこれは私が彼に『彼女たち』と同じ視線を向けられてしまう可能性もある……だがっ)
アルベールからのサンドイッチの配達は続いている。彼はヒートの周期や日数もその境遇から大体知っているのだろう。ユリウスのヒートの間はドアの傍にサンドイッチを置くだけだったが、ヒートが終わってからは以前のように部屋で会話も交わすようになった。ただその口から何かを言いかけて結局やめるというようなことが続いていて。彼はユリウスの仕事を他に割り振り始めたものの、まだ決定的な事実を告げるのには迷っている節があった。
ユリウスをオメガだと知ったはずだが、彼からの視線に未だ嫌悪は感じない。だから。
失敗すれば彼女たちと同じようにアルベールから冷たい視線を向けられてしまう可能性が、居場所どころか親友の心すら失ってしまう可能性があるけれど。
アルベールが己に向ける情に掛けてみようと。
ユリウスは抑制剤とともに手に入れた薬の一つへと視線を向けた。
「ユリウス……話がある」
その日いつものようにサンドイッチを片手に現れたアルベールは、少しだけ雰囲気が違った。
(……ああ、私に伝える決意をしたのか)
けれどその前に。
「まあ立ち話もなんだから茶でも飲んでいきたまえ」
ユリウスはアルベールを部屋の中に誘い、扉の鍵を掛けた。
「……」
いつもなら何でもない茶の用意に今日は手が震える。これからしようとしていることを思えば当たり前だが。
アルベールはソファに座って待っている。
ユリウスは彼の分のカップにポットから紅茶を注ぎ、そこに粉砂糖のような粉末を振りかけてスプーンでかき混ぜた。粉末は紅茶の中に溶け出し見えなくなる。
そして自分のカップにも紅茶を注いでから、口に小さな錠剤を含み、紅茶ではなく水で飲み込んだ。錠剤だというのに外側に味がついていて、舌に不自然な甘さが残る。初めて服用したが、説明書きの通りなら効果は数分もしないうちに出るはずだ。
「待たせたねぇ」
トレイに乗せた二つのカップをテーブルに置き、アルベールの向かいに腰を下ろす。
「……」
アルベールが紅茶に口をつけたのを確認してから。ユリウスもカップに手を伸ばし舌に残る不快な甘さを喉に押し流す。
「!?」
アルベールが紅茶を飲み込んだ直後、その体が強張ったのが見て取れた。
ユリウスが飲んでいたのはヒートの誘発剤で。
アルベールの紅茶に忍ばせたのは。
オメガがなびいてくれないアルファを求める際に使う、一般的には媚薬に分類されるもの、だった。量によって効果が出るまでの時間を調整できる薬。ユリウスは口に含んですぐ効果の出る量を、アルベールのカップへ注いでいた。
「ユリ、ウス……なにをっ」
アルベールの瞳にはまだ理性の色がある。どうしてだ、と彼の眼差しは語っていた。それを見て迷ったが、今更後には引けず。そして自身も強引に沸き起こしたヒートの熱に翻弄され。
「……しんゆうどの……アルベール」
彼の前に立ち、身に纏う衣服を床に落としていく。
温泉が有名でもあるこの国で、アルベールから入浴を誘われたこともあったがそれらは今まで全て断っていた。裸になればオメガだというのが露見する。男のオメガの性器は子供のときに成長を止めるのだから。けれど今はもう見せることを厭わない。そして。
全てを晒す状態になった瞬間。
「あっ」
誘惑できていないと思っていたアルベールから強く抱き寄せられ、ソファに座る彼の膝の上に腰を下ろす状態になっていた。
(これ、は……)
アルベールに触れられた瞬間、ユリウスの内から湧き上がったのは。
多幸感、だった。そしてそれは。
「んっ」
アルベールから口付けられ、彼の手が肌に触れる度に大きくなっていく。
考えがあっての、アルベールの情に漬け込むための誘いだった。けれど。
そんなことはどうでも良いと思えるほどに、今ユリウスの身は幸福感に包まれている。
ヒートの誘発剤によって蕩け始めていた下肢、その奥も、アルベールの手や唇が肌の上を滑る度に、更に柔らかく熱くなっていく。
「ぁ」
アルベールの手が背中を伝って下がって行き、尻の肉を左右に割り開かれ。指が一本ゆっくりと差し込まれる。
「んぁっ」
普通の男の体なら乾いた指の侵入に痛みを覚えるところだろうが、ユリウスはオメガだ。薬でヒート期と同じ状態になった尻穴は充分に濡れていて、アルファの雄をすぐに受け入れられる状態になっていた。
「はぁっ……あっ」
中を探るアルベールの指が増やされて、敏感な部分を掻き回され。与えられる快感と多幸感に、ユリウスは甘い喘ぎを零す。
もっと直接彼の熱を感じたい。指では物足りない。彼の雄に直接貫かれれば体を包んでいる幸せがもっと強くなる予感がある。けれどそれを口に出すことは憚られて、ただアルベールにしがみつく。
「っ」
中を弄っていた三本の指が引き抜かれ、その後体の下で衣服、前を寛げているような音が響き。
ユリウスは求めていたものが与えられる予感に目を閉じて、その瞬間を待った。
「ひぐ、ぁあ」
アルベールの手に腰をがっしりと掴まれ、浮いた尻に熱い塊が押し付けられる感触。蕩けた内部は雄を飲み込んでいくが、その大きさにユリウスの唇からは苦しげな声が漏れた。けれど苦しさと同時にアルベールと確かに繋がっているという事実を認識して。
甘く幸せな痺れが全身に走る。
「あひ、ぁあ、んっ」
熱く大きな塊に下から突き上げられて、彼のものを胎内一杯に感じて、包み込まれるような多幸感とともに喘ぎが零れ落ちていく。
何故こんな気持ちになるのかと揺さぶられ快感に霞む意識の中で考えて。その最中、チリ、と髪に隠れた項が小さく痛むのを感じ、そこをアルベールに噛んで欲しいという思いが湧き上がって。瞬間。
(!)
ある答えに辿り着いた。それはユリウスにとって余りに都合がいいもの。
(……運命の、番……)
定められた結ばれるべき相手、その相手と出会い求められたオメガは最上級の幸福に満たされるという。そして相手のアルファも同じ状態になるのだと。自分が今感じている多幸感、幸福感はまさにそれではないのか。
アルベールとは『親友』で、今まで彼をそういう対象として見てきたわけではない。今日の誘いも騎士団に残れる可能性に賭けてのもので、彼への想いからではなかった。けれど、もし。
オメガとしてアルファを選ばなければならない日が来るとしたなら。
許されるならば彼を、アルベールを選びたいと思っていた。
それに項を噛まれて正式な番となれば、ヒートが来ても番以外を誘惑することはない。
アルベールと番になる。それは今のユリウスにとって酷く魅力的なもの、だった。
「あっ、ひうっ」
尻の中に満ちていたアルベールの雄が、腰を抱えられることによってぎりぎりまで引き抜かれる。そして。
ずちゅんと音を立てて最奥まで貫かれて。
「ひぐ、ぁああ」
ユリウスは悲鳴に近い喘ぎを上げながら達する。直後、中の雄が大きく震えて胎内が熱い精で満たされていく。その感触にすら幸せを感じながら、ユリウスはアルベールに体を預けて瞼を下ろした。
(……アルベール?)
あの後アルベールの精を中に三度ほど受け止めて、その後の記憶がない。どうやら少しの間気を失っていたようだ。ソファに横たえられた体に不快感はなく、アルベールが後始末をしてくれたのだと分かる。素肌の上には毛布が掛けられていた。
アルベールの姿を探し、彼の姿を視界に移した瞬間。それまで漂っていた多幸感が一気に吹き飛んだ。
ユリウスの向かいのソファに腰を下ろすアルベールの顔色は蒼白かつ憔悴していて。
『運命の番』と体を重ねた後だとはとても思えない。
ずきり、とユリウスは胸が痛むのを感じた。
(……何を夢見ていたんだ……忌み子と呼ばれる私が、彼の『運命』であるはずないのに……)
ユリウスはアルベールを『運命』だと確かに感じたが。それは一方通行で彼の『運命』はどこか別にいるのだ。彼にふさわしい、きっと皆から愛されるような人物が。
「……ユリウス」
アルベールがこちらに視線を向ける。その表情を改めて見つめて。
(失敗、だねえ)
ユリウスは彼の情へ訴えかける計画が失敗したのだと悟る。その瞳に欠片でも自分への愛おしさが感じることができたら、少しの希望は持てただろう。行為の最中のアルベールの表情を、ユリウスはほとんど見ていない。ただ彼から与えられる熱に、触れられる幸せに翻弄されていた。けれど今彼の瞳にあるのは後悔だけ。多分、親友を抱いてしまったことへの。
誘ったのはユリウスだが、彼は自分が耐えきるべきだったとでも、そのくらいの自制は持つべきだったとでも考えているのだろう。今まで数々のオメガの誘いを退けてきているのだから。
「ユリウス、お前はここに、騎士団に居るべきじゃない。これ以上俺がお前を傷付けてしまう前に、どうか……」
疲れ切ったようなアルベールの声。そこにはやはりユリウスが先程まで包まれていた幸福感などは僅かにも見当たらない。
その事実と伝えられた言葉は。
ユリウスの心を引き裂くもの、だった。
(こうなるのを避けたかったから……そのために動いていたというのにっ)
アルベールの視界の先にはソファに横たわるユリウス。顔色は悪くはなさそうだが体は酷く疲れているはずだ。何せつい先程までその身で己の溜まった欲を受け止め続けていたのだから。
誘うような真似をしたのはユリウスで、けれど抗えなかったのはアルベールだった。
自分は相当に自制心が強いほうだ。今回のユリウスが取った策など、今まで受けてきたオメガの誘いの中では軽いもの。紅茶に薬が混ぜられていたようだが、その薬にしても今既に影響が残っていないところを見ると、副作用が少なく、そして効果もそう強いものではないように思う。これ以上の薬を飲まされたことや飲まされかけたことなど何度もあった。だというのに。
ユリウスが服を脱ぎ、あの甘い香りが立ち込めた瞬間、彼に触れたいという想いが強く湧き上がり、それを無視することができなかった。今までのオメガ相手には、薬を飲まされた状況でもそんな想いを抱いたことはないのに。
騎士団はアルファのみで構成されている。自制心の強い自覚のある己でこれなのだ。他のアルファがヒート期のユリウスを見てどうなるか。
だから、意識を回復した彼にここから離れるべきだと伝えた。
「……私は別に構わないのだけれどねえ」
ソファに半身を起こしたユリウスが小さく、けれどはっきりと呟く。先程悪くないと感じていたその顔色は、今は少し青褪めて見える。
懸念の詳細を言葉に出していたわけではなかったが、この状況では見通されてもおかしくはない。
「っ」
「元より今日君を誘ったのもそういう役目でいいからここに……」
騎士団に置いて欲しいと縋るため、だよ。養父母、そして父はヒートを迎えた私を誰かへの貢物にすることを考えるかもしれないが、このオメガの体が騎士団の役に立つならそれでも良いと思うはず。おそらく私がそう扱われる可能性も見越して、ここに押し込めたのだろうから。
「そんなことを許せるわけないだろう!!」
思いの外強い声が出た。
今までその頭脳で国の発展に貢献してきた彼が、オメガだと判明したからといって。その身を複数のアルファの性のはけ口にされるなど、許せなかった。
他ならぬ己がそうしてしまった後だが、ならばなおさら。これ以上汚させるわけにはいかない。親友である彼を。
(……一刻も早くここから、騎士団から)
ユリウスの肌に触れたときから、不思議な感覚に包まれて思考が上手くまとまらない。けれど、彼をここから遠ざけなければという意思だけは鮮明に残っていて。
アルベールは奥歯を強く噛み締める。
がり、と小さく砕ける音がして、同時に舌に僅かな苦味が広がった。
「しんゆうどの?」
ユリウスに近寄り、見上げてくる彼に屈んで口付けて。
「……ぁ」
舌の上の薬を流し込む。
薬はただの睡眠薬。ただし即効性の。アルベール自身は回数を服用することで耐性をつけているものだ。オメガに無理矢理襲われた際の対策の一つで、本当はこんな使い方をする予定はなかった。
様子の確認のために閉じなかった視界の中で、ユリウスの瞳が見開かれ、そして。深い悲しみの色を湛えたのが映った。
つきりと胸が痛んだけれど、意志だけは揺らぐことはなく。
「……ユリウス」
瞼を完全に下ろした親友を、アルベールは毛布ごと抱え上げ歩き出す。
腕の中の体は軽く、酷く頼りなかった。