「SEQUENCE」 本文サンプル
*注意書き*
既刊「ONE SCENE」と同設定の話になります。
世間に隠して同性婚をしているけれど、僅かにすれ違っている二人がお互いの気持を知り本当の両想いになるまでが「ONE SCENE」の内容で、この本はその後の話になります。
・前世であまり幸せな結末を迎えていない設定です(ユリウス、アルベールともに自分の『最期』は覚えていない)。
・ユリウスが今世の家族に虐待されていた設定があります(虐待シーンは出てきせん。ユリウスが虐待で受けた傷は「ONE SCENE」内で治療済み)。
・モブユ要素がありますが、書きたかったのはその後のアルベールとのHなので、文字としてのモブユ描写はないに等しいです。
・結婚しているのでアルユリR18シーンは結構多めです。
・パラレルという設定上、そこそこ喋るモブキャラが数名出てきます。
・転生先は現代日本に似ているけれど日本ではない『どこかの国』となっています。
・相変わらず自己設定満載ですが、自分なりの萌えをたくさん詰め込んだつもりです!
【P4~】
冷蔵庫の上に置いた小型ラジオから流れてきた曲に、ユリウスはレードルで鍋の中身をかき混ぜていた手を止める。鍋を温めていたガスコンロの火も消して、静かな空間に響く音楽へと耳を傾けた。
モノトーンのタイル貼りのキッチンの中、一際存在を主張しているのは木目模様のコンロ。料理と研究が趣味のユリウスのために、この部屋の持ち主でもある同居人が最近新調しれくれたものだ。以前使っていたものは二口だったが、新しいコンロは四口。料理と同時に研究用の素材作りに使うこともあるが、今日は料理のみに使用している。
キッチンに一つだけある窓に映るのは夏の夕陽。外はまだまだ暑いのだろうが、室内はエアコンにより過ごしやすい温度に保たれていた。
前奏が終わり、響いた歌声にユリウスは仄かな笑みを浮かべる。手を止めたのは聞き覚えのある曲だったから。それも当然で、ラジオが奏でているのは芸能人として活躍している同居人、アルベールのデビュー曲だ。彼は十八歳でデビューし、二十五歳を過ぎた今も人気を保っている。芸能人としての分類はアイドルだと思うが、彼は歌手活動には消極的。歌をユリウスに聞かれる状況も好まないようで、デビューから年数が経った今でも、彼の持ち歌を一緒に聞いたことはない。だからもしアルベールが在宅中であったら、無言でラジオを消されていた可能性もあった。幸い今、彼の姿はこの家にはなく。予定ではあと数十分ほど芸能人としての仕事をこなしているはずだから、その心配はないけれど。
セキリュティが充実した高級マンションの一室。この家でユリウスがアルベールとともに暮らし始めたのは、彼が芸能人としてデビューする少し前。前世では騎士団長という職に就いていた男が本人の性格に合っているとはとても思えない芸能界入りを果たしたのは。前世でもこの世界でも家族に恵まれなかったユリウスのためだ。
ユリウスとアルベールは二人とも前世の記憶持ち。前世の記憶を幼い時に思い出したアルベールがユリウスを諦めずにずっと探し続けてくれたから、再会を果たすことができた。
二人で暮らすには広すぎるほどのこの場所は、アルベールが芸能界入りと引き換えのようなかたちで手にいれたもの。
再会当時、二人はまだ学生で、一旦はそれぞれの暮らしに戻ったが。ユリウスの高校卒業時にアルベールが迎えに来て、それと同時に同性婚によって結ばれ夫婦になり。ユリウスは実家を離れた。父、そして血の繋がらない母からも冷遇されていて、思い入れや未練などは一切なかった。
夫婦として同じ家で暮らし、体も重ねていたものの。少し前まで、アルベールがとある映画に出演し、その映画をユリウスが見るまで、お互いに向ける想いは僅かにだがすれ違っていた。映画で描かれた出来事が己と彼の間で実際に起ったことだと、己が彼を置いて命を散らせてしまったのだとユリウスが知った後。前世、レヴィオンという国では長い時間を一緒には過ごせなかったが、今度こそ最期までともに過ごす、それがアルベールの、親友そして伴侶でもある彼の望みなのだと何度も聞かされて。そんな彼の言葉、映画を通じて垣間見た己を失った後の彼の姿、それら全てが。ユリウスが根強く抱えていた『前世でも今の世界でも多くの人に愛されているアルベールの相手が自分で良いのか』という想いを緩やかに薄れさせていった。完全に消すことはできなったけれど。
そしてそんなアルベールの想いが込められた贈り物が、ユリウスの首元で揺れている、チェーンを通した指輪。アルベールの瞳と良く似た色の宝石と、ブラックオパールに彩られたそれは、アルベールからの『傍に居てくれ』という言葉に、ユリウスが頷いた後に贈られた。贈られた当時、ユリウスの体には首裏から背中にかけて家族から受けた虐待の傷痕が多く残っており。家族から蔑ろにされていたことを示す傷痕の上に、アルベールから大事に想われている証のようなチェーンと指輪を身に着けたくなくて。痕を消すための手術を受ける決意をした。
手術は長く掛かり、痛みもあったが、今はもうすっかり綺麗に傷は消えている。以前は傷痕を隠すために下ろしっぱなしだった尻まである長い髪を結うことも覚えた。料理をしている今は少し高い位置で結わえ、その上にこれまたアルベールからプレゼントされた黄色い細いリボンを巻き付けている。服に合わせやすいように自分で購入した黒や紺のリボンもあるのだが、一番使っているのはアルベールからの黄色い、彼の髪色に良く似た色合いのリボンだ。
指輪はペアで注文していたようで、アルベールが持っているものは石のひとつがユリウスの瞳の色。ユリウスと同じようにチェーンで通して首から下げていることが多い。そしてもうひとつ。ある時期から彼の左手薬指を常に彩っている指輪があるのだが、それはユリウスがアルベールに贈ったもの、だ。指輪の真ん中には小さな石が二つ並んでいて、二人の瞳の色になっている。
アルベールは『ユリウスとの関係を隠していたくない。それが原因で芸能界に居られなくなっても別に構わない。他で働くだけだ』とまで言っていて。そこまで覚悟を決めているのならば、とユリウスも関係を明らかにすることを止めはしなかった。一気に広めるのではなく、親しい人からゆっくりと頼むよ、と付け加えてはいたが。そしてアルベールの心を受け止める意味を込めて、指輪を贈ったのだ。多くの人に愛される彼が『己のもの』であるという、以前なら抱くことのなかった独占欲も込めて。
曲の終わりが近付き、耳はラジオに傾けたまま、ユリウスは料理を再開する。予定通りに仕事が進んでいれば、もう少し経ったらアルベールは帰宅するはず。それまでに仕上げなければ。
アルベールと再会するまで、料理が好きだとは言えなかった。この世界の父、そして義母は、ユリウスに料理を強要はしても、美味しいと伝えてくれたことは一度もない。実母が生きていたら子の手料理に優しい言葉を掛けてくれたかもしれないが、彼女はユリウスが幼い頃に亡くなっている。故に、アルベールが『お前には生き辛いんじゃないか』といったあの家に、裏の世界で暮らす家族に引き取られることになったのだけれど。
父は基本無言で、義母は何を作っても不満ばかり。専属の料理人が居たから、作る機会は多くなかったのが救いだ。義母からは作らされたクッキーの形が僅かに崩れているという理由で暴力を受けることもあった。そんな状況で料理を好きになれるはずもない。今は料理を楽しみながら作れているが、それはアルベールのお陰だ。彼はユリウスの手料理を美味しそうに食べてくれるし、言葉でも伝えてくれる。この家で彼のために食事を作り続けている間に、料理と楽しいと思う感情をいつしか思い出していた。前世でも彼の反応を楽しみに料理を作った過去の記憶とともに。
後奏が終わり、ラジオが別の、ユリウスが知らない曲を奏で出す。特に興味を惹かれる曲でもなかったから、冷蔵庫の上に手を伸ばし、ラジオの電源を落とした。
頭の中で先程流れていた曲を反芻しながら、アルベールのデビュー当時の様子を思い返し、クスリと笑う。歌うことを余り好まない彼に、君の容姿と声があれば大丈夫、と宥めた時間は鮮明に覚えている。彼は口を真一文字に引き結び、納得はしていない様子だったが。デビュー曲はユリウスの言葉通り結果も残したというのに、それ以来アルベールがソロで歌の仕事を受けることはほとんどなく。歌手活動は事務所の先輩とのユニットが中心で、そのユニットとしての仕事量も多くはなかった。わざわざ本人が苦手意識を持っている歌を選ばなくとも、多くの仕事依頼が来ているようだからそれで構わないのだろう。
(……そう言えば)
アルベールの歌手活動における相方的な事務所の先輩、そのライブを、彼と二人で観に行く予定があったのを思い出す。アルベールが先輩から直接チケットを貰ったらしい。同居人さんと一緒に見に来て、と先輩に言われたとアルベールが話していた。
アルベールが出演するわけではないが、彼の先輩、そのライブには興味があり。本来かなりの競争を勝ち抜いた上でしか手にできないチケットを貰ってしまうのは申し訳ない気がするが、渡されたのはアルベールだ。己が口を出す部分ではないだろう。
ライブを観に行くにあたり、ひとつ心配事もあったが、それはアルベールに尋ねれば答えてくれるはずだ。返答によっては観に行くという選択肢はなくなるが、それも仕方ない。自分の存在がアルベールの負担になるのは嫌なのだから。
鍋の中身、赤ワインで煮込んだ牛肉がゴロゴロ入ったビーフシチューが程よく煮立ったところで。
「ただいま」
カードキーによるドアの解錠音が微かに聞こえ、アルベールの声が響いた。
「おかえりなさいませ」
キッチンに繋がるリビングへと姿を見せたアルベールを出迎え、夕飯の支度が丁度できたところだよと伝えたのだが。
「……親友殿?」
無言でこちらを見つめる彼に首を傾げる。朝出掛ける時から変装用のキャップも眼鏡も掛けていなかったところを見ると、今日の移動は全てマネージャーの車で行ったのだろう。
「!」
傍にゆっくりと歩み寄ってきたアルベールの唇が、ユリウスの唇に触れて。ユリウスは受け止めるために目を閉じた。
「んぅ」
初めはついばむような優しい触れ合いを繰り返していた唇が段々と深く重ねられ、舌を絡める口付けへと変化していく。アルベールの右手はいつの間にかユリウスの後頭部へと添えられていた。
口内を舌で蹂躙される感触の中、下ろしていた瞼を僅かに上げると。アルベールの瞳、奥に情欲を滲ませたそれがぼんやり潤んだ視界に映し出された。
「はぁっ」
「夕食よりこっち……先に良いか?」
長い口付けにより乱れた息を整えていると、耳元にアルベールの普段より低く掠れた囁きが落ちる。
「……手加減はしてくれたまえ」
この状況で彼が言う『こっち』が察せないはずもなく。ユリウスはひとつだけ要求を告げてから頷いた。
ここ二ヶ月ほどアルベールの仕事が忙しく、彼のオフの日はユリウスが研究院に呼ばれていることが多かった。故にしっかりと触れ合う時間が取れていない。アルベールは明日オフではないけれど、仕事は昼からだったはずで。ユリウスには今のところ特に用事は入っていなかった。ならば久々にアルベールの熱を受け止めるのも良いだろう。再び近付いてきた唇に、ユリウスはゆっくりと瞳を閉じた。
リビングで最後までするわけにはいかないし、この家にはそれぞれの私室だけではなく、二人で過ごすための寝室もある。この口付けが終わったら、そちらへの移動を提案しなければ、と考えながら。
「んっ」
成人男子二人が並んで寝ても充分な余裕がある広いベッドの上。ユリウスは仰向けに寝転び、体の上を這うアルベールの指や舌の感触に喘ぎを零していた。
寝室に入ってすぐにアルベールの手によって服を脱がされ、彼も纏う衣服を脱ぎ捨てたから、お互いに全て素肌を晒した状態だ。
アルベールはユリウスの腰を跨ぐような体勢で覆い被り、愛撫を進めている。
「っあ」
首筋を舐めていたアルベールの舌が移動し、鎖骨を強く吸い上げられチリとした痛みを感じ、ユリウスは身を震わせた。唇はすぐに離れたが、痕は残っているだろう。それを咎めようかとも思ったが。
(……余り首元を大きく晒すような服を着ることもないしねえ……)
ユリウスの私服は以前あった傷を隠すために選んだ、首元がかっちり閉まったものが多い。それに。
痕は彼が己へ向ける想い、その強い証のような気もして、本当は嫌ではないのだ。けれどそれを素直に伝えるような性格ではないから。文句は告げなかったものの、代わりに呆れたような溜息を洩らす。アルベールはこちらの気持ちなど見通しているのか、ただ緩く笑むのみ、だった。
「ふ、んぅ」
アルベールの唇が鎖骨から移動し、ユリウスの左胸の突起を含む。同時に右胸の乳輪を指で軽く揉み込まれて。快感というよりはくすぐったさで声が上がる。そしてそのくすぐったさは、尖りを唇で強く吸われ、手で摘まれて。段々と快感へと変わっていく。
天井にぼんやりと向けていた視線を下げアルベールを窺うと。目を閉じた彼によって一段と強く胸を吸い上げられる感触があって。
「あ!」
直後、先端を舌で軽く舐められた後、解放される。
ゆっくりと離れるアルベールの唇の下、ぷっくりと膨らみ色を増した己の乳首が見え。また下肢が緩やかに反応しているのを自覚して、羞恥で頬が熱を持った。
「……ユリウス」
言葉とともに優しいキスが紅く染まった頬に落とされた後。アルベールの手がユリウスの下肢へと伸ばされる。肌に触れる手は太腿を撫でた後、緩やかに勃ち上がっている中心へと触れた。
アルベールのものは既にしっかり硬く大きくなっていて。相変わらず物好きだと思いながらも、彼が己の体に確かな欲を抱いてくれている事実に安堵する。
「!」
開かされた足の間、そこにアルベールが膝をつくかたちになり。ユリウスの性器、その竿にアルベールの硬く育った屹立の先端が擦り付けられて。
「ぁあっ」
熱さと刺激に、ユリウスの唇から一際高い喘ぎが零れ落ちた。
ー中略ー
アルベールの行為は決して乱暴ではない。乱暴に抱かれたのは一度だけ。映画の撮影時に過去の記憶を引き出されたアルベールの、抑えきれなくなった不安をぶつけられた時のみ。基本ユリウスの肌に触れる彼は優しく丁寧だ。けれど彼の雄、その勃起したものの大きさを狭い場所で受け止めたユリウスは、行為後いつも暫くの間動けなくなってしまう。
今もベッドに横寝になった体を、アルベールが持つ湯に濡らしたタオルで拭かれるままになっていた。ベッド下の床には浴室から持ってきたであろうお湯の入った洗面器がある。いつの間にか結い上げていた髪は解けており、リボンとヘアゴムはベッド横のローテーブルの上に置かれていた。アルベールが移動してくれたようだ。
タオルを一旦離し、ユリウスの背中側に回ったアルベールの指が、尻孔に差し込まれ、中に残る精をゆっくりと掻き出していく。途中敏感な部分に僅かに指が触れて。
「ん、ぁっ」
小さく声が漏れた。
中を綺麗にし、足先まで拭いてくれたアルベールが、洗面器にタオルを浸けて近付いて来て。
「あまり色っぽい声を出すな。また欲しくなる」
などと囁いたから。
「君の性癖は特殊だよ」
強く呆れを滲ませて返す。多くの女性に騒がれる、童顔気味だが整った顔、着痩せするが均整の取れた実用的な筋肉がしっかりとついた体。それらを持つ彼が欲を抱くのはこの身だけだなんて。
普段より幾分高く、掠れの強い喘ぎだとしても、この声に性的な興奮を覚えるのはアルベールくらいだろう。もっとも特殊だと呆れで返したものの、この身、この声が想い人に興奮を与えられる事実は嫌ではない。たくさんのものを与えてくれた彼に己が返せるものは、それこそこの身と心くらいしかないのだから。以前は体だけしかないと思っていたけれど、アルベールは心ごと強く求めてくれているのだともう分かっている。
「夕食の支度をしなければだね」
「ほとんどできあがってるんだろう? なら俺がやる。温めるくらいは俺でできるからな、流石に」
掃除や洗濯は積極的に手伝ってくれるアルベールだが、料理は得意とは言えない。本人も自覚はあるようで、簡単な下準備はともかく、調理に進んで手を出すことはない。けれど今日の夕飯は既に温め直すだけの状態となっていて、ならば彼に頼んでも大丈夫だろう。
アルベールは温め直したビーフシチュー、そして買い置きしてあるロールパンとミニトマトを盛り付けた皿をトレイに二人分乗せて寝室に運んで来た。行儀が悪いと思いつつもまだ余り動けそうになく、ユリウスはアルベールの手を借り、ベッドのヘッドボードに背を預けて夕食の時間を過ごした。
ベッド端に腰掛けたアルベールはシチューを口に含む度に表情を和らげていて、彼のそんな様子にユリウスの唇も自然と笑みのかたちを取っていた。
「そう言えば……」
食事が一段落した後、ユリウスはアルベールに問い掛ける。食後の片付けもアルベールが引き受けてくれて、作業を終わらせた彼と二人、ベッドの上で寝転んでいる。皺になったシーツもアルベールが清潔なものに交換してくれていた。
「先輩のライブで君がステージに上るような事態になったりしないかい?」
ライブを観に行く際の懸念。アルベールの隣に居る自分の存在が、彼の芸能生活に波風を立てないかが気になったのだ。アルベールとの関係は概ね好意的に受け取られているが、全ての人がそうではない。ライブの観客の中には己の存在が受け入れられない人たちも居るのではないか。
アルベールが最後まで一人の観客と過ごすのならば大きな注目を浴びたりはしないと思うが、もしそうでなかったら……。
「俺一人で観に行くなら可能性はあったが、ユリウスもと言われてるからな。大丈夫だ」
その辺気を配ってくれる人だから、と告げるアルベールに。自分の心配は杞憂だったかとユリウスは小さく息を吐き出した。
寝室の窓、カーテンの隙間からやや強い夏の朝の日差しを感じて、アルベールは数回の瞬きの後瞼を上げた。まず視界に映ったのは抱き込んだユリウスの寝顔。長い睫毛が影を落とすその姿を確認して、アルベールは緩く笑んだ。想い人が己の腕の中に確かな温度とともに存在している、その事実への安堵を滲ませて。
壁掛け時計を見ると既に朝の七時を回っている。いつもならこの時間、ユリウスはキッチンで朝食の準備をしてくれている。だが今日はまだすうすうと規則正しい寝息を立てて眠り続けていた。昨夜の行為による疲労が残っているのだろう。
ユリウスの前髪をそっと掻き分け、額に柔らかくキスを落とし、彼を起こさないように注意を払いつつベッドを下りる。そして身支度をするために寝室を出て浴室へと向かった。軽くシャワーを浴びた後、自分の部屋で着替えを済ませる。仕事ではなく近所のコンビニに出掛けるための身支度だから、服装はラフなものを選択した。自分には服装のセンスが備わっているとは言い難く、クローゼットに並ぶ衣装の大半はユリウスが選んでくれたものだ。
部屋に備え付けられた細長い姿見を確認しながら、前髪を真ん中で分け、更に整髪剤で整えて印象を変える。度の入っていない縁の太い眼鏡も掛けて、最近新調したキャップー種類としてはワークキャップまたはレールキャップと呼ばれているそれーを被った後。もう一度ユリウスが寝ている二人用の寝室に戻り、彼がまだ眠っているのを確認してから家を出た。
十分弱ほど歩いて目的地に到着する。コンビニの自動ドアを潜り店内に足を踏み入れると、ひんやりとした冷房の風が体を包み込んだ。入口すぐ横に設置された買い物かごを手にして、まず向かったのはサンドイッチの置いてある冷蔵コーナー。アルベールは前世でユリウスにサンドイッチを贈り続け、そしてこの世界でもサンドイッチを見掛けるとユリウスに買って帰るのが習慣のようになっていた。
コンビニの大量生産品ではなく、パン屋のサンドイッチを買いたい気持ちはあるのだが、あいにくマンション近くにパン屋は存在しない。家を購入する際、繁華街などからは離れた静かな場所を求めたから、周囲は発展しているとは言い難かった。静かな場所を求めたのはユリウスのため。以前の、実家から連れ出したばかりのユリウスの心と体を癒やすには、騒がしい場所は相応しくないと考えたからだ。
(……このコンビニのサンドイッチは確か前にユリウスがコンビニのものにしては美味しいと言っていたからな)
パン屋のサンドイッチではないがユリウスが以前、このコンビニのサンドイッチを称賛したのを記憶していて、今日はここで妥協することにした。
ユリウスの好む、胃にもたれそうにない、野菜や卵がメインの具材のサンドイッチをかご入れた後、自分の分を選ぶ。少し悩んだ後、カツサンドとサンドイッチコーナーの横に設置されたバーガーが並んだコーナーからレタスとチーズのバーガーを手に取った。
レジに向かう途中、雑誌コーナーの前に立つ二人の女性の会話が耳に飛び込んで来る。踵を返し彼女たちから少し離れた場所で聞き耳を立てたのは、自分に関する話題が聞こえたからだ。彼女たちが覗き込んでいる月刊誌には覚えがある。少し前に取材を受けた雑誌で、その時にユリウスのことを、名前は明かさずに話題に出していた。とても大切な伴侶として。
ー中略ー
「ユリウス、起きたのか」
朝食の買い物を終え家に戻ると、ユリウスがベッドに上半身を起こしていた。おざなりにだがシャツも羽織っている。ヘッドボードに背を預け、まだ体は重そうな様子ではあったが。
「……どうやら寝坊してしまったようだね」
「俺のせいだろう。朝食を買ってきた。お前が作ってくれるものには到底敵わないが」
コンビニの袋を差し出すと、ユリウスの表情が和らぐ。
「有難う。私はこのコンビニのサンドイッチ結構好きだよ。前に言ったのを覚えていて、買ってきてくれたんだろう?」
「……ああ」
「紅茶でも淹れようか」
ベッドから下りようとしたユリウスがふらつくのが見え、アルベールは彼の体を支えてベッドに押し戻し。
「俺が淹れてくるからそれまで休んでいろ」
ユリウスが横たわったのを見てからキッチンへと向かった。
湯を沸かし、ユリウスが気に入っている茶葉で紅茶を淹れ、トレイにカップを二つ乗せて寝室に戻る。コンビニで買ってきたパンの友として淹れた紅茶はユリウスが淹れたものより少し渋い気がしたが、彼から合格点はもらえたのでまあ良しとする。
「いってらっしゃいませ」
朝食が終わり、暫く寝室でのんびりとした時間を過ごした後。ユリウスの見送りを受けその頬に軽くキスを落としてから家を出る。今日は電車でスタジオに向かうため、コンビニへ出掛けた際の変装をそのまま続けていた。
キスを唇にしたい気持ちはあるのだが、そうするとそれ以上に触れたくなってしまうから、頬で我慢している。ユリウスからは毎回胡乱げな視線を向けられるものの、今のところ制止を受けたことはない。外でするのなら怒られる可能性が高そうだが、誰も見ていない家の中だから許容してくれているのだろう。
撮影予定は午後だが、スタジオがやや遠いので移動時間も考えて、今の自国は十一時少し前。朝食を食べて出るにはやや早い時間。撮影前にスタジオ近くの食堂にでも適当に入って済ませるかと思っていたのだが、だいぶ体力が回復したらしいユリウスが弁当を作って持たせてくれた。本当に簡単なものしか入っていないけどねぇと言っていたが、アルベールとしてはたまに撮影現場で出される高級料亭の仕出し弁当などよりも、彼の手作りの食事のほうが嬉しかった。前世は栄養の研究の結果だよなどという言葉で変わった味のものを食べさせられることも多かったが、この世界の彼は余りというかほとんどそういう真似はしない。それは多分彼がアルベールに感じている『恩』のせいもあるのだろう。
ユリウスはこの世界のアルベールの人生、その道を彼の存在が狭めてしまったのではと考えている節がある。アルベール自身がユリウスを強く求めた故の結果だから、気にする必要などないのに。だからアルベールのほうがたまに懐かしくなって、不思議な味の食べ物を求める言葉を口にするくらいだ。
前世でもユリウスが本気で作った料理は充分に美味しかったが、この世界では前世よりも料理を作る機会が多いからか、更に腕を上げているようにも感じた。
「アルベールさん、お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした」
スタッフと挨拶を交わし、着替えるために更衣室へと向かう。
昨日ユリウスと繋がり、また撮影直前に彼手製の弁当を食べていたお陰か、以前のように過去の記憶に引き摺られることなく無事に撮影を終えた。
今日入っている仕事はこの一件だけで、着替えを終えた後ユリウスに帰宅する旨を伝えるために、携帯を愛用のボディバッグから取り出す。手にした携帯は未だにガラケーだ。
(社長?)
携帯の画面が、所属事務所の社長から着信があったと知らせている。留守電にメッセージも残されていた。これを聞いたらすぐ社長宅に来て欲しい、と。
社長から急に呼び出される理由が思い当たらずに首を傾げるが、取り敢えず行くしかないだろう。撮影で髪型は本来のものに戻っていたから、キャップを深く被り眼鏡も掛けてからスタジオを後にし、タクシーを拾って社長宅に向かう。到着すると何だか難しい顔をして庭に立っていた社長に迎えられた。剛毅な性格の彼女が、こんな表情を浮かべているのは珍しい。
「話は中で」
それだけ言うと踵を返し早足で歩き始めた社長を、アルベールも追い掛ける。
「実は……匿名で複数の雑誌社に投書が届いてね」
書斎のソファに腰掛け社長の話を聞く。匿名の投書、余り心地の良い響きではない。そして社長宅に呼び出されたのが自分だけだということは、投書にはこの身が関係しているのだろう。ユリウスと結婚しているという事実は、もっとはっきり世間に明かしたいと思っているし、芸能界で過ごしてきた時間に疚しいところなどはないつもりだが。
「……投書は君に無関係ではないが……どちらかというと君の大事な人に関係している」
「っ」
社長の言葉にアルベールは僅かにだが身じろぐ。大事な人と言われて浮かぶのは当然ユリウスだ。
「これ、明確な証拠がなかったから記事になる前に何とか差し押さえられたんだけどね。……雑誌の編集長に伝手があって助かったよ」
社長が差し出してきた一枚の紙、まだ校正などが入る前の原稿と思われるそれには。ユリウスの名前自体は明記されていなかったが、アルベールの同性の結婚相手、その父親が。
『反社会組織のトップである』と大きく目立つ書体で記されていた。
【P66~】
「俺は明日いったん帰国しますけど……お二人は大変ですね」
野外の撮影現場でユリウスが昨日のことを尋ねる前に、アルベールを慕う若手アイドルから声を掛けられる。けれどその言葉の意味はよく分からず曖昧な笑みを浮かべていると、彼が言葉を続けた。
ほとぼりが冷めるまでってか記者が諦めるまで海外滞在なんて、と。
(……記者が諦めるまで?)
ますます内容が掴めなくなったユリウスだが、彼の声は更に続く。
「証拠もなく匿名の投書だけを理由に記事にしようとするなんて、馬鹿ですよね。それに……ユリウスさんは成人してて、それに十八の時からアルベールさんと結婚して家を出てるんですよね? なら実家との関わりなんてないに等しいだろうに」
「……ああ、そう、だね」
彼の話、その内容の意味が薄っすらとだが分かってくる。匿名の投書、記者、そして実家。それらを照らし合わせると。
(誰かから私の実家、その闇を告げる投書が届いて……)
そしてアルベールまたは社長の判断で、国内よりは海外で過ごしたほうが良いということになり。本来長期ではなかった映画の撮影スケジュールが変更されてしまったのだ。密かな出国も、テレビの普及率が低いこの国がロケ地として選ばれたのも多分、投書が関係している。
アルベールの芸能人としての失脚を狙ったのであれば、彼に直接脅しを掛けるだろうし、彼はむしろそんな切っ掛けがあれば芸能界をすぐに去ってしまうだろう。芸能界に入ったのはユリウスと暮らす場所を手に入れるためだと彼は常々言っていて、今はもうその立場にも執着していないのだから。だがそれをせず記者の目の届きにくい海外で過ごすという手段を取った理由はおそらく。
(……私の心を守るため……)
投書の犯人が求めるもの、目的は分からない。けれどそんな投書があったと知れば、アルベールに己の実家のことで迷惑を掛けたと分かれば。心には影が落ちる。
アルベールはそれを望まなかったからこそ、彼がこの身と心を守りたいと望んでくれたからこそ、今まで渋っていた海外ロケを受け入れたのだろう。
ユリウスの同行、そして長期ロケへの変更が叶えられるならば、と。アルベールと社長は監督にロケ期間を伸ばしてくれるように頭を下げたのかもしれない。
そもそもアルベールはこの映画への出演自体、最初は嫌がっていたはずだ。『あの映画のスピンオフだろう? どうしてもお前を失った時を思い出してしまうから、な……』と言って。にもかかわらず今、彼が映画の撮影でこの国を訪れているのは。
(私のため、そうとしか考えられない……何が親友殿の世話をするために、だ……私はっ)
己の存在は彼に迷惑しか掛けていないではないか。
ずっと心の奥に押し込めていた気持ち、想いが、再び湧き上がってくる。
投書のことを知らされていない状況を責める気はない。アルベールはこの身と心が傷付くことを酷く厭う。この身が彼の傍から離れることを頑なに拒む。そして知らされていれば、傍にいて欲しいと何度も請われているのに、その想いを無下にしてしまう行動を取ってしまいかねなかった。アルベールにはそれが分かっていたのだ。
(……私はどうすれば?)
己の実家のことでアルベールに迷惑を掛けているのだから、一番簡単な解決策は彼から離れることだと思う。けれどそれは同時に、彼が一番望んでいない行動。
アルベールが投書の犯人を探さなかったとは考えられない。けれど彼の周囲では見付けられなかったのだろう。だから自国を離れた。記者がユリウスの実家、その実態を掴めず諦めれば、実家の闇を追わなくなればそこで終わるはずだと。ユリウスを傷つけることもないはずだ、と考えて。
(……投書は一体、誰が何のために?)
頭に浮かぶのは既に縁を切った、裏社会に暮らす実家の人々。
実家の人間は己のことなどもう忘れ去っていると思っていた。十八歳の時にアルベールに救われるかたちで家を出て。それ以降何一つ連絡などなく、探している様子など欠片もなかった。だからもう関わることなどないと思っていたのに。何故いまさら、家のことがアルベールとの関係に影を落としている?
「ユリウスさん?」
「あ、ああ、すまない。少し考え事をしていてね……。ここでは考えがまとまりそうにないから、少し散歩をしてくるよ」
投書の差出人、その目的に予想をつけるにしても、撮影スタッフや演者が多くいるこの場では落ち着かない。
ユリウスは話を聞かせてくれた、男性アイドルに軽く頭を下げてから、静かな場所を求めて歩き出した。
途中、すれ違った現地の男女の会話が耳に届く。
「スタントマン? それにしては顔が良い気がするわね」
「海外のアイドルらしいぞ」
「アイドルなのにあんなにハードなアクション自分でやっちゃうんだ?」
男女が話しているのは間違いなくアルベールのことだろう。今日の野外撮影は彼のアクションシーンが中心だ。定期的に同じ場所で撮っているからか、一部の現地の人々に密かに話題になっているらしく。たまに見学しようとする人々が訪れるようになっていた。周囲には現地で雇った警備員が配置されている。訪れる人々も警備員の指示にはおとなしく従っているようで、撮影の邪魔などにはなっていない。
(……ここ、は。まずいところに出てしまった気がするねえ……)
人が少ない場所を求めて目的地も決めず歩いていたら、いつしか全く見覚えのない場所に出ていた。辺りを見回しても目印になるような建物も看板もない。それに何やらかつて暮らしていた裏の世界、それに良く似た空気を少し先の通りから感じる。通りの手前には一軒、寂れた商店のような構えの家が存在していて、ドアには手書きでオープンと記されたプラスチックプレートが貼り付けられている。少し考えた末、ユリウスは道を尋ねるためにその家へと向かったのだが。
「!?」
あと数歩で辿り着くというところで、背後から何者かに布で口を塞がれた。
「……っ」
両手で相手の腕を掴み抵抗するが、荒事に慣れているのかがっちりと抑え込まれ、振り返ることもできない。口を塞ぐ布から何らかの薬品の匂いを感じ取りながら、ユリウスの意識は薄れていく。
誰かから遠くで名を呼ばれたような気がしたが、声の主の確認は叶わなかった。
サンプルを読んでくださり、有難うございます。
興味を持ってくださったらイベントまたは通販でお手に取っていただけると嬉しいです!
(サンプル不穏なところで終わってますが、ハピエンですのでご安心ください)
通販はイベント終了後、BOOTHで受付予定です。