「月や星を求めても」 本文サンプル(WEB掲載分)
【2】
(……)
意識がゆっくりと覚醒していく。その中でユリウスが感じたのは恐怖、だった。これから目にする現実に対しての。
もし公爵家だったら……。あの場所に戻されていたら。その思いが目覚めを拒否する。けれどいつまでも逃げ続けるわけにはいかない。
(ちが、う)
重い瞼をゆっくりと上げて瞳に映った天井は、過去の記憶にはないもので。
ユリウスは無意識に強張らせていた体からふっと力を抜いた。
体はまだ重くベッドに横たわったまま視線だけを部屋に巡らせる。
(宿?)
部屋の造りからどうやら宿屋だと推測する。置いてある家具や調度品は上品なもので、宿の中でも高級な部類に入る場所だと感じた。
(……それはそれで面倒、だねえ)
この国で宿に泊まる際、バース性だけは正確に記さなければならない。場末の宿ならばバース性など気にすることはないかもしれないが、高級宿ではそうもいかない。宿側がバース性を知りたがるのはオメガのヒートでアルファとのトラブルを起こさないため。高級宿の利用者は貴族も多い。彼らが望まぬオメガに誘惑されて、その責任を宿に負わされるのを恐れているからだ。
アルベールはそんな理由があるとは知らないかもしれないが、彼がこの身をこの場所に託したのならば、バース性は正確に伝えているだろう。名前はもしかしたら偽ってくれているかもしれない。公爵家に連れて行かず宿に託したなら、それくらいはしてくれている可能性が高い。この宿もユリウスが知らないということは、高級ではあるものの、王族や騎士団に関わる貴族が頻繁に利用する所ではなさそうだ。
「早く、ここから出なければ」
宿への迷惑もだが、それ以上に。父王や公爵家の目の届かない場所へ行きたかった。アルベールに拒絶された以上、騎士団に戻れる可能性はもうないから。
二十歳を超えてもヒートを迎えることなく、役立たずとして騎士団に押し込められていたが、今のユリウスはヒートを迎えてしまった。それは子を宿す可能性があるということ。男オメガの価値はこの国ではかなり低いが、それでも一応王族の血を引く身だ。王や公爵家の養父母に知られてしまえば、この身を彼らの欲に利用されてしまう可能性があった。騎士団の役に立つならば放置もしてくれたかもしれないが、既に騎士団には見捨てられた体だ。
オメガの体質は国や環境によって変わるらしいが、この国の男オメガには男としての生殖機能は備わっていない。だからヒートを迎える前のユリウスは男とは言えなくて、けれどオメガとして子を宿し産むこともできない、父や養父母にとっては確かに役立たず、だった。
たとえコレクションとしてでも貴族の寵を受けて暮らすのは男オメガとしては上等な生活の部類に入るのかもしれない。けれどユリウスはそれだけは嫌だった。オメガとしての己を捧げて良いと思ったのは、アルベールとそして騎士団の者達だけ。けれど他ならぬアルベールがそれを望まなかった。
(……できるだけ、城から、国の中枢から離れる。どこか人目のつかない場所へ)
幸いと言っていいのか、武力こそが一番必要なものと考える王は、末端には殆ど目を向けていない。だから国内でも城から遠い貧しい農村などならば隠れて暮らすことはできるだろう。
(私は多分オメガとしては幸運、だったのだ)
運命の番に出会える者はごく僅かだと、昔バース性についての本を読んで知った。
だからたとえ一方通行だったとしても。一度きりの行為だったとしても。
今まで感じたことのない幸せ、それに包まれた時間を短くとも手に入れたのは幸運だったのだと、自身に言い聞かせた。けれど。
ベッドから下り、備え付けのクローゼットを開け、そこに下げられていた外套を見た瞬間。
ヒートを迎える前の自分が夢見ていた未来を思い出し、かくんと床に膝をついた。
深い紅色の外套はユリウスのものではなくアルベールのもの。ユリウスも良く似た色の物は持っているが細部のデザインがかなり違うので見間違いようがない。それなりに洒落たデザインだが実用的な外套で、雨に耐えるフードが付いている。彼はこれをユリウスに着せてここに運んで来たのだろう。アルベールの意図はわからないが、この外套は彼の買い物に付き合ってユリウスが選んだもの。友と買い物に出かけるなど初めてで、衣服にこだわりを持たないアルベールにかなり口を出したことも鮮明に覚えている。買い物の後も二人で過ごして、その暖かい時間の中で。
ユリウスは初めて『未来の夢』を持った。
己は子を成すことも宿すこともできないけれど。この親友の傍で彼と、彼がいつか選ぶであろう人を密かに支えていきたい。
アルベールは彼の寵を受けたいオメガに群がられるのが原因で少し女性不信気味だったが、そんな中でも彼ならばいつか本当に大事にしたい相手を見付けるだろう。己に彼ほどの武力はないけれど、それ以外で彼と彼の想い人を守り支えていくのだ、と。
それは叶う可能性の高い夢だったはずだ。なのに。
「……なぜいまさらっ……」
この歳になってヒートを迎えなければならないっ……迎えるならばもっと早くにっ。普通のオメガがヒートを迎える時期にっ。それならば彼と、アルベールと出会うこともなかっただろうにっ。一方通行の運命の番などと知ることもなかっただろうにっ……。
外套を腕に抱きしめる。
泣き叫びたかったが実際には唇から出た声は細く小さく。感情を抑え込むことに慣れてしまった身では、涙も目尻に溜まるのみで零れ落ちはしなかった。
気持ちが落ち着いたとは到底言えなかったが、宿にいつまでも留まっているわけにもいかない。
ユリウスはアルベールの外套を羽織って部屋から出た。部屋の片隅に置かれた鞄の中に、私服は何枚か入っていたが、その上に羽織るものはこれしかなかったのだ。
宿の受付に居た人物は表向きは笑顔を浮かべてはいたものの、ユリウスがすぐに出る旨を告げるとホッとしたように小さく息を吐いた。やはりパートナーを連れていないオメガを泊めていることへの緊張感があったのだろう。彼は一週間分の料金を先払いで預かっておりますと伝えてきたが、それは返却しなくていいと告げて、ユリウスは宿を出た。一週間分の宿代はユリウス自身がアルベールに返却するつもりだ。直接、は無理だろうけれど。
宿を出て少し悩んだ後、ユリウスが向かったのは城からやや離れた場所に建つ私邸。宿の看板に記された地図からすると宿は城からほどほどに離れていて、私邸に向かうことは城に近づくのを意味するが、離れるための準備だと割り切った。アルベールに宿代を返す手筈も整えなければならないのだし。もしそれがなかったら、宿を出てすぐに旅立ったかもしれない。
私邸の場所は公爵家の養父母には把握されているが、アルベールを始め騎士団の者たちには伝えていなかった。私邸を使った回数は多くない。だが自分が偽ったわけではないけれど、騎士団の皆にバース性を明かしていないことに苦しくなって、そういう時に身を休めるために訪れていたから。騎士団の関係者、たとえアルベールでも伝える気にはなれなかった。今となっては無意味な隠し事となってしまったが。
フードを被って顔を隠し、人気のない通りを選びながら私邸へ向かう。途中目についた寂れた薬屋で抑制剤を購入した。今持っている分は旅の途中で使い切ってしまうだろうと思っての行動だ。鞄の中には幾らか金が入っていたから支払いにはそれを使った。
辿り着いた家からは人の気配はない。それに安堵してユリウスは扉に手を翳した。鍵は城の執務机、その引き出しの奥に置きっぱなしになっているが、家の扉には己の魔力に反応するシステムを密かに組み込んでいたから中に入ることができた。家の中には鍵のスペアもあるが、それはもう今後の自分には必要ないだろう。
殆どを城で過ごしていて、ここに戻るのは久しぶりだ。にもかかわらず中は整っている。それは公爵家から定期的に掃除にくる侍女が居るから。彼女はユリウスの監視役も兼ねているはず。だから入る前に気配を探って確認した。鉢合わせては面倒が起こる可能性がある。もし鉢合わせたとしても、ただたまたま戻ってきているだけという演技をするつもりではあったけれど。元から殆ど使っていなかった家、彼女が異変を把握するとしてもかなり時間が経った後だろう。
旅に必要な最低限の物を革鞄に詰めた後、アルベールへ手紙を書いた。この家に彼に返却する金を置いていくと決めたからだ。今居る部屋、家の奥にある小さな書斎はユリウスが唯一侍女に入ることを許していない場所で、小型の金庫も設置されている。金庫にはこの家で過ごす際の生活費をそれなりの額入れていた。
己の状況を詳しく知っているのは騎士団の中ではほんの一部だろう。公爵家に戻されなかった事実もあって、アルベールがすぐに積極的に広めることだけはないと確信していた。彼はユリウスを厭うて騎士団から遠ざけたのではないというのはよく分かっている。ユリウスが望みのために求めたことと、アルベールが親友を大事にしようとする想いの中で許せないこと、それが重なってしまっただけ、なのだ。そしてそれはユリウスがヒートを迎えなければ起こらなかったはず、だった。
書き上がった手紙を出すのはこの身がどこかに落ち着いた後にしようと決める。手紙の封筒には家の鍵のスペアとこの書斎の鍵を、最後の役目を終えた後に忍ばせることにした。そして手紙とは別に、小さなメモに言葉を記していく。
アルベールと、親友ともう会うことはないだろう。だから。素直な気持ちを、今まで伝えようとしなかった言葉を文字に認める。
途中泣き言のようになってしまった部分は塗り潰して。
ユリウスは小振りの麻袋に入れた金とメモを書斎の隅に設置されたテーブルに置き、部屋の鍵が確かに掛かったのを確認してから、外へと歩き出す。
アルベールの外套は置いていくか悩んだが、妙に離し難く。
結局羽織ったまま家を後にした。
「団長、大丈夫ですか?」
マイムからの問いにアルベールは、何がだとは聞き返さなかった。自分が酷い顔色をしている自覚はあったから。
ユリウスをこの騎士団から遠ざけてもうすぐ一か月が経つ。彼の仕事の内理解できる分は引き受けて、仕事の量はかなり増えていたが元から仕事に没頭することに苦痛を覚えるタイプではない。仕事が増えたのはある意味自業自得で、それを辛いとは思わない。けれど。
仕事の合間に彼との、ユリウスとの時間が過ごせなくなり、彼に話を聞いてもらうこともできなくなった、それが辛かった。
そうしたのは自分だというのに。
あの日、眠らせたユリウスを抱えて一旦は公爵家を訪れたものの、腕の中の彼が語っていた内容を思い出し。ここに預けることはできないと踵を返した。公爵家が彼の身を騎士団の性のはけ口にされても問題にしないというあれが本当なら、この家に預けても親友がより悲惨な目に遭うだけだと想像できる。そんなことをさせないために遠ざけようとしているのだから、公爵家には渡せない。騎士団に直談判でもされたら自分の力ではどうにもならないかもしれないが、今はまだ彼らにユリウスの状況を、オメガとしてヒートを迎えたのは知られていない。あの日までユリウスからオメガの気配を感じたことはなく、あれが彼にとって初めてのヒートだったのは間違いないだろう。ヒートを迎えていないオメガに王や公爵家は利用価値を感じなかった。だから騎士団に居たのだユリウスは。ならばこれからも王や公爵家には知られないように動こうと考える。
アルベールはユリウスを騎士団から遠ざけたい。そしてそれは彼を守りたいという想いから来ているのだから。
あの日を、公爵家から去った後を回想する。
今後の身の振り方は目覚めたユリウスに任せようと、アルベールはとりあえず城からそれなりに離れた宿屋に彼を預けた。
ユリウスの身を包んだ外套はアルベールのもの。初めはユリウスの私物を着せたのだが、何故かその姿に違和感を覚え、よく似た色の自分のものを纏わせると。ああ、これでいい、と何故か感じた。代わりにユリウスの外套は城で自分が使っている部屋のクローゼットに仕舞った。
城から離れた宿を選んだのは彼を落ち着かせるため。騎士団から離れた場所で暫く過ごせば、彼は己の進む道を自分で見つけ出すのではないかと思ったから、一週間分の宿代を支払って、自分はすぐに出ることも伝えて。アルベールはユリウスを抱えて部屋に向かった。
広いベッドにユリウスを下ろす。高い宿にふさわしく家具も上等なものが揃っており、壁には防音が施されているから雑音も少なく静かに体を休めることが出来るだろう。
ユリウスはまだ眠り続けていて、今の彼からは甘い匂いは漂ってこない。彼はおそらくヒートの誘発剤を飲んでいて、今は彼の本来のヒート期ではないのだからそれも当たり前かもしれない。
アルベールはユリウスの髪をそっと梳いてその寝顔を確認してから。立ち上がり部屋から出た。
騎士団で共に過ごすことができなくとも、彼がオメガだとしても、彼とは親友のままで。
そう遠くないうちに今の自分たちに相応しい位置で交流が再開できると考えていた。けれど翌日、確認のために宿屋に向かうとユリウスは既に姿を消していて。その後の足取りは掴めなかった。去るにしても一度城に私物を取りに来ると思っていたのにそれもなかった。そして改めて確認したユリウスの部屋は、私物が極端に少なかった。多いのは床下の秘密の場所に置かれた葡萄酒くらいで。
彼がどこに居るか分からないまま、時間は過ぎ去っていく。
「……どうしてユリウス様を?」
ユリウスを騎士団から遠ざけた事実はマイムたち三姉妹の身に伝えていたが、その原因は教えていなかった。彼女はずっと疑問を抱えながらも、アルベールが塞ぎ込み何も言わないから今まで聞かずにいてくれたのだろう。
「ユリウスは……オメガだった」
「!!」
それは……仕方がないですね、ユリウス様がオメガだというならこの騎士団は辛い場所になるでしょうし。
マイムは言葉では納得した風に呟いていたものの、浮かべている表情は仕方ないという感じにはとても見えなかった。ユリウスがオメガだというのも、いまいち信じ切れていないのかもしれない。同時にアルベールが辛そうにつぶやいたことで嘘ではないとも感じているのだろうが。
「今日はもうお休みになられてください」
机の上に積み上げられていた書類を全て抱えて彼女が告げる。
「ああ、そうさせてもらおう」
アルベール自身も限界を感じていたから、マイムに素直に従った。
「差出人の名前が記されていない手紙?」
「はい、でもこれは団長に必ずお渡しするように言われまして」
まだ新入りといっていい騎士団員はマイムから手紙を預かったらしく、真面目な彼女がそんなことを言い付けるのは珍しいと思ったが、渡された手紙に記された己の名前、その筆跡を見て、アルベールは納得した。
(これは……ユリウスの字)
マイムもそれが分かったからこそ、アルベールに必ず渡すように伝えたのだろう。そして多分差出人であるユリウスもこうなることを予想していた気がする。
団員が部屋を出てから、アルベールは手紙に向き直る。白い封筒はその上品さに似合わず無骨に膨らんでいて、紙とは思えない重みもあり、『何か』が入っているのを感じさせた。
机に備え付けてあるペーパーナイフを使い、開封する。
数枚の便箋ともにでてきたのは。
大きさの違う二つの鍵、だった。
便箋にはユリウスの私邸の場所が記されていて。借りていた宿代を返したいからいつでもいいのでこの場所に尋ねて来てくれ、と書かれていた。彼が個人的に家を持っているのは知っていたが、場所を教えてもらったのは今日が初めてだ。
(……ここに行けば、ユリウスに会える、のか? ……会って、いいのか?)
彼を想って騎士団から遠ざけたけれど、彼はそれを望んでいなかった。騎士団から去るべきだと伝えた時、彼はつらそうな、傷付いたような表情を浮かべていた。
あの時、何故今までさんざんオメガの誘惑に耐えきったはずの自分がユリウスへ手を伸ばしてしまったのかは未だに分からない。分かっているのは他のオメガと違って彼の匂いは不快に感じず。そして彼の肌に触れた瞬間、今まで抱えたことのない気持ちが湧き上がって来たということ。けれど。
「ぐっ」
その気持ちの正体を求めようとすると、アルベールの体はまるで拒否反応のように酷い頭痛を引き起こして。答えを知ることができない。以前はこんな頭痛に襲われることなどなかったのに。まるで何かが意図的に己の心を操作しているような不快さを感じながら。
アルベールは手紙を見返し、記された場所へ明日にでも向かうと決めた。
(……これは必要ないな)
文机の引き出し、その中を見つめていたアルベールは結局何も取らずに仕舞って鍵を掛ける。引き出しの中身は薬だ。オメガの誘惑への耐性を高めるための。
あの時のユリウスは明らかに思い詰めていた。そしてアルベール自身も混乱していた。もし今日ユリウスと会うとしてもあんな状況にはならないだろう。ユリウスは騎士団に残る為にあの行動を取ったようだったが、既に彼は騎士団から引き離されているのだから。
(この薬は余り無駄遣いしたくない)
国は優秀なアルファの血を引く子を求めていて、アルファを産んだオメガには多くはないが報奨金も出している。アルファの自重を国は望まない。だからそんな状況の中、オメガのヒート抑制剤と違い、この薬はかなり高価な値段で売られていて、かつ入手手段も多くない。無駄に使いたくはなかった。
責任を求められないとしても、自分の意志ではなく誰かと関係を持つのはごめんだ。いずれは自分が想う相手と普通の結婚を、と考えてはいたが、そこに具体的なビジョンはなにもない。ただ未来を想像してそこにあったのは、己の隣にユリウスが立っていて、自身は変わらず騎士団長として彼とともに国を守り支える姿、だった。だがユリウスがオメガだと知った今、その未来を迎えられる可能性は限りなく低くなってしまった。
深く溜息を吐いてアルベールは部屋から出る。ユリウスの手紙に記された場所に向かうために。
辿り着いたのは上品な造りではあるが、貴族のものとは思えないほど小さな家。中に人の気配はない。それに落胆と同時に少しの安堵も抱えて、鍵を使い家の中に足を踏み入れた。
主が留守の家が荒れている様子はない。ユリウスは以前から殆どを城の中で過ごしていたはずだから、家の管理自体は誰かに任せているのかもしれない。
手紙には金は書斎に置いてあると書かれていて、金を返してもらうつもりなどなかったのだが、そこに彼の痕跡がないかと思いながら書斎の場所を探した。家の大きさに見合い部屋数も多くなく、書斎と思わしき部屋はすぐに見つかった。扉には鍵が掛かっていたが、手紙に同封されていたもう一つの鍵を差し込むと、すぐに開けることができた。
書斎の片隅に設置されたテーブル、その上に小振りの麻袋が置いてあり、その中に金が入っていた。アルベールが宿代として払った額よりかなり多い。だがそんなことよりも。
その下に隠すように置かれていたメモが気になった。
メモを手に取る。
「っ」
そこに記されていたのは、アルベールが初めて知るユリウスの心、だった。
『ありがとう。もう会うこともないだろうから、素直に言葉にするよ。面と向かっては言えそうにないし、君もそれはもう望まないだろう。私はずっと親しい友を作ることなどできないと思っていた。それこそ幼い子供が絵本を読んで月や星を欲しがるような途方もない、かなうはずのない夢なのだと。だから君との出会いは私にとっては奇跡だったよ。長い時間ではないけれど、君と過ごせて嬉しかった』
その下の文章は塗りつぶされていたけれど、何とか読み取ることができた。
『私がオメガでなかったら、いや、あのままヒートを迎えることがなかったら』
君とずっと共に過ごせただろうか。
どくん、とアルベールの心音が跳ねる。そして湧き上がったのは後悔、だった。
(俺の選択は本当に正しかったのか? ユリウスはどこに行ったんだ? そこで幸せになれるのか? そもそもあいつがあんなことをしてまで騎士団に残るのを望んでいたのに、どうしてあの時の俺はあんなに頑なだったんだ? ユリウスがオメガだと知っても、嫌悪感などは微塵もわかなかったのに)
ぐるぐると思考が巡る。アルファの集団の中に一人だけオメガが居るのは危険だという考えは今も変わらない。けれど、あの時彼が性のはけ口にされるのが嫌だと思った理由は、国に尽くしてきた彼にそんな真似をさせたくないという前に、もっと個人的な想いがあったんじゃないか?
(俺はユリウスを……)
「ぐぁっ」
答えが形になりそうになった瞬間、今までにない強烈な頭痛に襲われ、テーブルに乱暴に両手を突いた。全身を抑えつけられるような痛みに思考が四散しそうになるが、この痛みの先にとても大事なものがある予感がして、耐えながら自分の感情を、心を追っていく。
ユリウスの手紙、今まで余り心の内を伝えてくれなかった彼の想いが綴られたメモ、僅かに震えていたであろうことも察せられる筆跡に触れると。少しだけ痛みが落ち着く気がした。
(あの時、俺は……)
痛みで霞む思考の中、ひとつの答えに辿り着く。
彼が汚されるのが嫌なのは確かだが、その感情には『自分以外に』というそれがつくのではないのか。あの時の彼の言葉、彼が体を捧げても良いといった相手は明らかにアルベールをはじめとする騎士団全員を指していた。だからあんなに強く『許せるはずがない』という気持ちになったのではないのか。
そして。
彼を抱いた際に感じた初めての感情、それは。……愛おしさ、ではないのか、と。
まだはっきりとした確信は持てない。アルベール自身、体が出来上がった頃からオメガの性的な襲撃に遭っていたこともあり、愛や恋というものを知るのを無意識に避けていたきらいがある。けれど。
微かにだが己の気持ちを自覚した今、ユリウスに会えば、何かが分かるのではないのか。何かが変わるのではないか。だから彼に会わなければ、探さなければ。
騎士団から、彼にとって危険な場所から遠ざけたかっただけで、永遠の別れなど望んでいないのだ。
テーブルから腕を離し、鈍く歩を進めると。
(?)
靴の先に何か小さな物が当たる感触があった。
(これは……)
拾い上げるとそれはアルベールにも見覚えがある薬。比較的入手しやすいオメガのヒート抑制剤のひとつだ。しかし。
値段も安いこの抑制剤だけで、ヒートを抑え続けられるオメガはそう多くない。ヒートを迎えたのがつい最近であるユリウスはそれを知らないのではないのか。抑制剤をこの薬しか持っていないのであれば、彼の身は危険ではないのか。
ヒートを抑えきれなくなったオメガが楽になる方法は。……アルファに抱かれること。ユリウスが離れた場所で自分の知らない誰かに身を任せる。それを想像して。
それは酷く嫌だと思った瞬間、また頭痛が強くなった。
ユリウスのことを考えなければ、彼への想いを追わなければ。痛みから解放される予感もある。だが。
アルベールはもうそれを望まなかった。