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八人分ほどの朝食の下準備を終えたユリウスは、外の空気を吸うために館から出た。調理自体は皆が起きた後に始める予定だから、散策の時間はあるはずだ。
自然に囲まれた村は静謐な空気に満ちている。館を一度振り返り、まだ誰も起きてくる気配がないのを確認して、村の外へと向かって歩き出す。
館に住む人々の朝は遅い。それは館が『娼館』だからだ。寂れた、国からも放置されているような場所だが、それでも人の欲がなくなるわけではない。いや娯楽が少ないからこそ、手っ取り早く性的な快楽を求める面もあるのだろう。館は賑わっているとは言い難くも、客が全く訪れない日はなかった。
ユリウスが朝早くから動いているのは、娼館に身を寄せながらも体を売っているわけではないからだ。国の目から逃れ生きていくためには自らを売る覚悟もしてはいたが、館の女主人から提案されたのは娼婦たちの世話と館の警護だった。娼婦たちはその殆どがオメガで、男の護衛を雇うのは悩んでいたが、そんなところに珍しい男オメガのユリウスが現れたのだ、と。館の女主人はバース性に関する知識をしっかりと持っていたようで、この国の男オメガに『男としての機能』がないことも知っていた。
(剣は扱えるがそれで身を立てることができるほど得意とは言えないだろう。元よりオメガの男は戦闘には向いていない。……だが幸いこの辺りに出る魔物はそう強くない上に村の近くまでやって来るものは殆ど居ないから、私の腕でも対応できている)
散歩をしながら周囲を警戒するが、今日も今のところ村とその周囲に魔物の気配はなかった。
少し離れた町の朝を知らせる鐘の音が微かに耳に届くが、館に住む人々が目覚めるのはもう少し後だろう。
ユリウスは見張りなどは立っていない蔦の巻き付いた古びた門をくぐって、村の外に出た。
歩きながらここに至るまでを思い返す。出来るだけ姿を見られないように、地味なデザインのフード付きのローブを購入し、顔を隠しながら徒歩と辻馬車で移動し続けた。
(……彼らはもうこの国での観光を終えただろうか)
途中、他国から温泉に来たという、立派な騎空艇を持つ騎空団に道を尋ねられた。フードで顔を隠している人物は道を尋ねるのには向かないのではと思ったが、彼らはこちらの事情を詮索してくることもなかったから、知っている中からお勧めの温泉地を何個か教えた。
騎空団を束ねていたのはまだ少年の域を出ない若者で、長い髪の少女と仲睦まじい様子で手を繋いでいた。少女がどこかに行く途中なら送っていきましょうか? などと言ってくれたが君たちの目的地とは離れているから、と断った。自分たちは急がないからそれでも構わないとも言ってくれたが、「少しこの国を歩いてみたくてね」と告げ歩き始めると。それ以上は親切心からでも押し売りになると思ったのだろう、彼らは気を付けてという言葉と共に見送ってくれた。
少し離れたところで彼らを振り返ると、少年は一旦離していた手を少女へと伸ばし、少女が彼の手を取るのが見えて。
その光景が以前の自分とアルベールと。大半を部屋に閉じこもって過ごしていたこの身を外に連れ出すために、差し出された親友の掌と重なった。
小さく、けれど胸の深い部分が痛んだが、気付かない振りをして、ユリウスは歩みを再開する。この場所はまだ国の目が届く。早くもっと遠くに行かなければ、と。
彼らの好意に甘え騎空艇に乗ればすぐに離れられたのかもしれないが、その場合それなりに目立つ。そうすれば自分のごたごたに彼らを巻き込んでしまう可能性もあった。
優しそうな、純朴そうな少年少女。彼らにこの国の中枢と自分の関係、その闇を知られその心を曇らせる必要はない。ただ温泉と観光を楽しんで、この国の良い所だけを胸に次の地へと向かって欲しい、そう思った。
(その後はいくつかの村や街を徒歩で越えた後……辻馬車が出ている街に辿り着いて)
元から体力があるほうではなく、限界を迎えかけていた体を宿屋で一晩休めた翌朝、街から辻馬車が出ていることを知った。まだ手持ちはそれなりにあって、それらの大半を使って、可能な限り城から遠くへ向かおうと決めた。
宿で簡素な朝食を摂り、辻馬車の停まっている場所へと向かい。馬車を引くために繋がれている二頭の馬を見て思わず息が詰まった。
似ていたのだ、己が遠乗りの際などに良く乗っていた馬と、アルベールの愛馬に。見目だけでなく二頭が仲良さげな様子すらも良く似ていた。
幼い頃は貴族教育の一環として馬に乗る訓練もしていたユリウスだが、騎士団に入れられてからはアルベールから差し伸べられた手を取るまで、馬に乗ることはなかった。再び馬に乗る機会を得たのは、アルベールから遠乗りに誘われた時だ。アルベールと友になってから、少しずつではあるがユリウスは彼と共に城下に出かけることが増えていた。一人部屋で飲んでいた葡萄酒も、アルベールと二人で語り合いながら楽しむ日が増えた。そんな中で二人の非番が重なった日に、ユリウスはアルベールから馬で少し遠出をしてみないかと提案を受けた。
「……馬には乗れると思うが」
自由に使えるような馬は所有していないと続けようとした言葉は、アルベールが大丈夫だからと遮って。彼に連れていかれたのは騎士団の厩舎だった。
馬の世話をしている男性にアルベールが声を掛け、顔を上げた人物にユリウスは僅かに目を見開いた。幼い頃乗馬の指導を受けた人物だ。公爵家に雇われていた。無口な男だったと記憶していたが、それに間違いはなかったようで。彼は無言でユリウスへと頭を下げた後、一頭の馬を引いてきた。アルベールはいつの間にか自分の馬を厩舎から連れ出していた。男性から馬の手綱を渡され、その際に小さく謝罪を告げられた。あの頃何もできなくて申し訳ありませんでした。騎士団に貴方が居ると知り、いつか自分の世話した馬に乗っていただけたらと思っておりました。この馬はあの時の馬とは血縁に当たります、と。
馬は確かにユリウスが初めて乗った馬と毛並みと面差しが似ていた。謝罪には、貴方があの時すべきことは私に乗馬を教えることだけだったよ、と返す。本心だった。彼は他の大人たちと違い自分を言葉や暴力で傷付けはしなかった。ユリウス自身、そして隣に立つアルベールも当然職業に貴賤はないと考えているがその考えが少数派なことも知っている。この国で馬の世話は平民、せいぜい下級貴族の仕事だった。そんな彼が公爵家を取り巻く面々に何を言えただろうか。やるべきことを成し、それ以外何もしなかった彼の行動や言動は当時のユリウスには十分に救いで。そして。
彼が自分を気に掛けてくれていた事実は、城で部屋に籠ったままでは知るよしのないことだった。
馬はユリウスの意志をすぐに汲み取ってくれて、幼い頃以来の乗馬だというのにとても快適だった。この国に晴れ間が覗く時間はほぼないけれど、その日は雷鳴が轟くこともなく雨も降らず。拓けた草原で馬を降り、馬たちだけで走り回る自由を与えてから二人で昼食を摂った。昼食は城下の食堂でアルベールが買ったサンドイッチ。彼からずっと贈られ続けているもの。
太陽の光はないけれど、少しだけ明るい空の元、アルベールの愛馬と今日ユリウスの馬となった二頭が寄り添って寝転んだり、軽い追いかけっこをしている。二頭はかなり仲が良い様子だった。
(……私たちの馬と辻馬車の馬の関係は分からなかったが)
血はどこかで繋がっていたのかもしれない。
二頭の馬とよく似た馬を操る辻馬車の御者に出来るだけ遠くに、人の少ない場所に案内してくれないかい? この金で行けるところまで、と告げると。御者は額に少しぎょっとした様子を見せたものの、厄介ごとを引き受ける面倒と報酬を考えて、割の良い仕事かもしれないと思ったのだろう。頷いてくれた。
「わけあり者たちが集う村ってのがあるって噂がある。俺は直接見てはないが、その近くまで送って行ったことはある。普通は村には国から派遣されてきた兵士とかが居る筈なのに、その村にはいねえらしい」
「……では私もその近くまでお願いしよう」
まさにユリウスの求めていた場所を御者は知っていて、長旅の末に辿り着いたのが今ユリウスが身を寄せている村、だった。
(そろそろ戻らなければ)
館で暮らす者達が起きてくる時間だ。彼女たちの為に下ごしらえだけ終えた食事を調理しなければ。
彼女たちはユリウスが過去に出会った娼婦とは全く違う。ユリウスが知っている娼婦は貴族や著名人の寵愛を受けるために自分を売り込むことに余念がなかったが、この村の彼女たちは求められるから差し出す、これは生きていくために必要なことだと言える清廉さがあった。私たちはお貴族様の寵愛を受けられるほど美しくも可愛くもないからね、と言い合う彼女たちは、ユリウスからすれば豪華に着飾り派手な化粧の下に強い欲を抱えた高級娼婦たちよりよほど綺麗だった。
国の支配の及ばない、見捨てられたような資源もない寂れた村だ。使える食材も多くはない。けれど彼女たちにとっては温かくて調味料で味付けされた食事、それだけで充分な贅沢らしく。食後には良く感謝の言葉を告げられる。村の周囲には調味料の原料となる草がいくつか生えていて、それらを加工して食事の味付けに使えるようにしたのはユリウスが過去図鑑などから得た知識だった。
昼は彼女たちのためにポプリや髪飾りを作り、夜は彼女たちの衣装を選び髪型や化粧を整えて客の元へと送り出す。香水を作るのには道具が足りず、また作れたとしても保存のための容器が揃えられなかっただろうから、代わりにと作り始めたのがポプリだ。髪飾りは古着などを再利用した。裁縫はオメガだと判明してからの教育の中で叩き込まれていたが、ここに来るまで活用したことは殆どなかった。ほんの数回だけ、親友の服のボタンを付けたりしたことはあったが。
彼女たちが仕事の間は一人の少女、自分と同じく訳ありと思われる幼い彼女に、記憶している絵本や物語の内容などを話して過ごした。客から指名されていない娼婦や客の相手を終えた娼婦もその内容を聞きながら相槌を打ったり、納得がいかない部分に突っ込んだりしてきて。研究もだが何かを議論するのも好きだから、彼女たちとの会話は楽しかった。これは己がアルファやベータの男だったらなかった時間だろう。この国の男オメガは性別的には雄ではない。だからこそ彼女たちもこの身を警戒せずに受け入れてくれている。
城を出た際、これから困難な生活が待ち受けていると思っていた。けれど今、自分は思いの外、穏やかな生活を送っている。
(もっと早くに決心していれば……)
夜が深くなり、うとうとし始めた少女を彼女用のベッドに寝かせて、食堂の片隅に置かれたソファに腰掛け思いを巡らせる。
幼い頃に、悪意に晒された生活を送っていた際に抜け出していれば。この優しい生活に辿り着けただろか。
(いや……多分どこか途中で野垂れ死んでいただけ、だろうね)
あの頃の己は知識も力も持っていなかった。それに。
(騎士団に入れられなければ親友殿とは……)
アルベールと出会うこともなかっただろう。
月や星を求めるのと同じくらい手に入れるのが困難だと思っていた、友という大切な存在。
あんな形で別れてしまったけれど、居場所を失いたくなくて、強引な女性たちのせいでオメガ不信気味な彼に薬を使ってまで迫ってしまったけれど。
(この地で君の幸せを祈ることくらいは、許してくれるかい?)
今はまだ胸が痛むけれど、きっといつか幸せな時間だったと、想い出にすることが出来るはず。
城を出てから、彼から離れて暫くが過ぎた今日改めて、ユリウスはアルベールとの時間を振り返り。その日は朝から夜まで、何かする度にそれに連なるアルベールとの記憶が、彼と過ごした時間が思い起こされた。
その翌日。ユリウスはヒートを迎え。
そのヒートは今までと違い、持っている薬では抑えることが叶わず。ただベッドで丸くなり、熱が去るのを数日間待つしか出来なかった。
静かに波打つ泉の表面に自らの素足をそっと触れさせて。
「……っ」
ユリウスは水の冷たさに小さく身震いした。けれどその冷たさは持続せず。
「はあっ」
すぐに体に奥から湧き上がる熱に掻き消され。熱さを何とかしたくて服を脱ぎゆっくりと泉に体を浸していく。
村で暮らし始めて時が経って、身につける服もすっかり様変わりしていた。草の上に投げ出された衣服、シャツは本来のユリウスの好みとは掛け離れている女性的なデザインの物。下は流石に男物だが。
館の女主人からオメガならオメガらしく見せたほうがここでは敵意を向けてくる者も減って生きやすいよと言われ、彼女から渡された女性用の服をしぶしぶ身に付け始めた。そして実際それはトラブルを回避するのに役立ったから、それ以来苦々しく思いながらも「男としての機能はない」ことを示すような服装を選ぶようになった。
館での生活に慣れ、外に出る機会が増えた辺りから村の娘たちに言い寄られたりもしていたのだが、男オメガだと服で主張することで彼女たちから想いを寄せられることもなくなり、村娘へ好意を抱いている男から絡まれる事態も殆どなくなった。代わりにこんな辺境に身なりの良い男がやって来たのはオメガという体質が原因だろうと憐れみの目を向けられるようになったけれど、城で向けられていた「忌み子」への視線よりはましだった。彼らの想像はある意味当たっているのだし。それに身を寄せている娼館で暮らす者たちはユリウスの存在を当たり前のように受け入れてくれている。それだけで充分だった。
既に夜中と言っていい時刻。村の外にある泉に近寄る者など自分しか居ないだろうから、周囲の目は気にしない。というより気にする余裕がなかった。
ぱしゃんと音を立てて頭まで水に浸かって全身を冷やす。
「はぁっ」
そして顔だけを水面の上に出し、一番熱を持っている部分、アルファを受け入れるために蕩けた尻の奥にも侵入してきた水の感触に身を捩った。
「んぅっ」
完全に熱を収めることは出来なかったが、冷たさの中で幾分思考は冷静さを取り戻して行く。あの日、初めて薬で抑えきれなかったヒートを迎えてから何度も繰り返してきた行為。
館の女性たちは自分用の抑制剤に合うものがあるかもしれない、と分けてくれようとしたが。体質に合わせて作られた抑制剤は彼女たちにとって決して安いものではなく、また数も決められた以上には支給はされていないはずだから、ユリウスは礼だけ告げて薬を受け取るのは断った。
(戻るには少し早い、か……)
今はまだ店で勤めている者たちは客を取っている時間。まぐわいの声や様子を聞いてしまえば、折角いくらか収まった熱が再びぶり返してしまう可能性がある。だから戻るのはいつも明け方になってからにしている。
娼婦でないユリウスは夜の時間は周囲の見回りをしながら、比較的自由に過ごしている。護衛を必要としているという主人の言葉に嘘はないだろう。けれど彼女がユリウスを娼婦として雇わなかったのはもう一つの理由のほうが強い気がしている。
彼女はユリウスに番が居ると確信しているようで。
「あんた、既に番を見付けてるんだろう? 仕事上、沢山のオメガを見てきたからね何となく分かるんだよ、そういうの。だったら身売りなんてするもんじゃないよ」
などと言ってユリウスを押し留めていた。
(一方通行の番を番と呼んで良いのかは疑問だけれどねぇ……)
周囲の、自分より若い女性たちが身を売って暮らしているというのに、ひとりそれを逃れていることに罪悪感はずっとある。けれど体を捧げるのはアルベールを始め騎士団の者たちだけが良いという想いは今も変わっていないから、その扱いは有難く受け止めていた。
泉から上がり、髪や体を布で拭いていく。水分を含んだ長い髪を布で包んだ際に、耳元と首を繋ぐ装飾品が涼やかな音を立てて。思わず動きを止め耳飾りの部分、蝶を象ったそれに指で触れた。
耳飾りと首飾りが長く細い繊細な鎖で繋がったそれは以前、アルベールから贈られたもの。明らかに女性用の装飾品で身に付けることなどないだろうと思いあの私邸に置きっぱなしにしていたのだが、旅立つ日に視界に入り、アルベールと確かに友だった証として鞄に思わず入れてしまっていたのだ。そしてオメガと主張するのならば、今まで着けるのを避けていたこれで身を飾るのも可笑しくないかと思い手に取った。贈られた時はオメガであると知られたのかと内心恐れながら、彼にどういうつもりだい? と怒ってみせたというのに。似合うと思ったから、それ以外の他意はないと言われても納得はできなかったが。偶然彼が購入したと思われる店に通りかかって、これは仕方がないかもしれないと思い直した。店先に置かれた展示用のテーブルには木でできた人台があり、その首元にはアルベールから贈られた装飾品と同じものが飾られていて。その髪型は色こそ金ではあったが、ユリウスの癖の強い長い髪ととても良く似ていたのだ。彼が似合うと想像しても可笑しくないほどに。
体を拭く布を下肢に滑らせ、まだ完全には熱を治めきれていない奥、その周囲に指を伸ばしかけて止める。内部を自分で弄れば一時的に直接的な強い快楽は得られるだろうが、そうしてしまったら……。
アルベールと体を重ねた記憶、それが薄れそうだったから。
一方通行の番とはいえ、確かにこの身はどうしようもないほどの幸福感を与えられていて。その時間を自分の行動で打ち消してしまうのは怖かった。
「っ」
突如、幾分抑えられていたはずの熱がぶり返す。まるでアルファを求めるかのように。己の体の変化に戸惑っていると。
(人の気配!?)
がさりと草が鳴って。
「何故、ここに……」
振り返った視界の中に映ったのは、泉の傍に現れたのは。
もう二度と会うことは叶わないだろうと思っていた、ただ離れたこの地で幸せを願うことを許して欲しいと考えていた親友、だった。