*18歳未満(満18歳の高校生含む)の方の閲覧はご遠慮ください*
「いってらっしゃいませ」
城へと向かうアルベールをユリウスは見送る。普段は朝食の後寝室に戻るのだが、今日は家事手伝いの女性が休みと聞いていたから、外には出る気はないがエントランスポーチの手前までなら見送って良いかと思ったのだ。
あの夜から今日まで、普段と変わらない生活が続いていた。けれど、ユリウスの心に根付いていた、本当にここに居て良いのかという想いは更に強くなっている。アルベールの言葉があるから、あの夜の彼の声は弱々しくとも酷く切実に聞こえたから。今のところはこの場所に留まっているが。
(今日は私が料理しても大丈夫か)
研究に通じる部分も多い料理はユリウスの趣味の一つでもあったが、この家のキッチンは家事手伝いの女性の領域だと考えていて普段は滅多に料理をしない。けれど今日彼女は居ないのだ。ならばキッチンに立っても構わないだろう。買い物に行くのは手伝いの女性だが、報酬とは別に少し多めの材料費を渡しているし、お前の好きに使って良いとアルベールにも言われているのだから。それに料理に集中していれば、彼との関係に憂いを抱いている心も少しは軽くなるような気がする。
(肉が多めのメニューにするかねえ)
この家で出てくる食事は、アルベールの好みというよりユリウスの好みに近いあっさりしたものが多い。おそらくアルベールが手伝いの女性にもそれで良いと伝えているのだろう。そして手伝いの女性はそれをアルベール自身の好みであり要望だと思いながら作っている可能性が高かった。
「!」
ドアノッカーの音が不意に響き、煮立つ鍋を焦げ付かないように掻き回しながら見守っていたユリウスの体がびくりと跳ねる。この家がアルベールの持ち家だということはアルベール自身とユリウス、手伝いの女性しか知らないと聞いていたから、来客などあるはずがないと思っていた。もし何らかの緊急の来客だとしても自分の立場からすると出ないほうが良いのでは、と考える。本当はこの場所にユリウスは『居ない』はず、なのだから。
出るべきではないと思いつつも一応様子伺いにエントランスポーチ近くまで向かうと。
「私です」
開けてもらえませんか? と聞こえてきたのは女性の声で。数回しか言葉を交わしたことはないが、その声は手伝いの女性のものだとはっきりと感じ取れた。
忘れ物でもしたのだろうか、とユリウスは安堵の息と共にドアを開ける。そして。
「少し、お話ししたいのですが」
彼女は意外な言葉を伝えて来て。
「私と?」
「はい」
はっきりと頷かれてしまえば、あまり気乗りはしないながらも、無視することなどできなかった。
(親友殿は……アルベールは私のせいではないと言ってくれたが)
それはきっと彼の優しい嘘なのだ。
既に手伝いの女性は話を終え去っている。彼女の話を聞いた後、ユリウスは寝室のベッドの上、横寝で足を抱えて身を小さく丸め、そんな思いを強くしていた。
話があると言った女性は、ユリウスにアルベールの体調不良の原因を知らないかと尋ねて来て。伺い口調ではあったもののその瞳に宿る少し剣呑な光が、知っているはずだと訴えていた。
アルベールからはユリウスのせいではないとはっきりと告げられていたし、ユリウス自身可能性が高いと思いながらも確証を持っていたわけではない。だから何も言葉を返すことはできなかった。けれど。
彼女から渡されたアルベールの体調不良の日を記したメモを見せられてしまえば。自分以外が原因だとはもう考えられなかった。メモの日付は己のヒート期間と見事に被っていたのだから。
去り際に女性から告げられた言葉がずっと頭の中で繰り返されている。
『貴方がアルベール様から大事にされているのは知っています。だからこそ』
貴方もアルベール様を大事に想っているのなら、ここに居るべきではないのでは?
(……ああ、本当にその通りだ)
アルベールは与えられず奪われて生きてきた己にとって、親しい友など月や星を掴むほどの奇跡だと思っていたこの身が手に入れた『親友』。とてもとても大事な存在で。だからこそ傍に居たかったけれど。一度は突き放されたはずの彼がこの身を探し出し、求めてくれたことが嬉しかったけれど。
己が彼を苦しているのならば、それを知ってしまったならば。……もう傍に居ることはできない。
アルベールが覚えている苦痛には、彼の意思とは関係ない外部からの干渉があるかもしれないが、だとしても己のヒートが関係しているのなら、この身が彼から離れれば彼は苦しみから解放される可能性が高いだろう。
(何度も抱かれたが項を噛まれることはなかった……)
この家でアルベールの庇護のもとで暮らし始めてそろそろ数ヶ月経つ。その中でアルベールがこの身を正式な番として求めることはついになく。やはり彼の番となる存在は己ではないのだから、本来隣りにいる資格もない。
けれど彼はユリウスをとても大切にしてくれていて。それは確かに感じていて。離れることは『今』の彼の心を傷付けるかもしれない。……だからこそ離れなければ、彼の元から去らなければ。例え彼が本来の番を見つけたとしても。この身が彼の近くで過ごし続けてしまえば、彼が本当の想い人に、番になるべき相手に意識を向けることはない気がした。
(……この家で過ごした時間は君に愛されているように感じられて、とても幸せ、だったよ。それが偽りだとしても、私にはその偽りすら君に出会うまで与えられなかったから)
直接伝える機会はもうないだろう感謝を心の中で告げて。
ユリウスは旅に出る際に身に着けていたローブを纏い、家を出る。急な旅立ちだがアルベールが帰ってくる前に去らなければ、彼の姿を少しでも見てしまえば。決心が鈍ってしまいそうだった。
「ユリウスに何を言った!?」
「っ」
城下で魔物の出現騒ぎがありそれを収めていつもより遅くに帰宅し、ユリウスの姿を探したアルベールだが。彼の姿を見つけることが出来ず、逆に今日は居ないはずだった手伝いの女性が視界に映り。彼女が「旅に出られたようですよ」なんて言って来たから。思わず詰め寄っていた。
何もなければユリウスが黙って出ていくはずはない。あの夜彼には「居なくならないでくれ」と伝えていたのだから。
あの日、苦しんでいる姿を見られてしまった後もこの家で彼は特段変わりなく過ごしていて、何かきっかけが、それなりに大きな理由がなければ。彼が己から再び離れてしまうとは思えなかった。
女性は身を震わせるばかりで話にならない。詰め寄った際、反射的に少し殺気を飛ばしてしまったから無理もないだろうが。
(まだ、そう遠くには行っていないはず)
目立つのを嫌うなら、ある程度は徒歩で人通りの少ない道を選んで移動する可能性が高い。ならばまだ、間に合うかもしれない。
間に合って欲しい、まだ追いつける場所に居てくれと強く願いつつ。
アルベールは城に逆戻りした。愛馬の脚、その速さをもってユリウスを探すために。
あっという間に小さくなっていくアルベールの背を瞳に映しながら、かくりと膝をつく。鋭い視線とともに向けられたのは『殺気』というものなのだろう。貴族の娘が本来向けられるはずのないもの。それだけ彼を怒らせてしまった。
自分は前のようにたまに、たまにで良いから彼と同じテーブルに着き食事をしたかっただけなのだ。一応は貴族を親に持つとはいえ、ベータ性の容姿が特段優れたわけでもない身で彼の相手が務まるはずもない。ただ、そう考えつつもアルベールが親友をこの家に連れて戻って来る前に少し、同じ空間で過ごし優しくして貰っていたから。思い上がっていたのかもしれない。
ユリウスには彼の存在がアルベールを苦しめているように誘導したが、本当はそうではないことを知っている。己の父はアルベールが健康維持のための検査、いやそのための施設だと思い込んでいる部屋に勤めている一人で。アルベールの身に掛かっているある『呪い』の内容を知っていた。父親が漏らしたのではなく、父に忘れ物を届ける際、別の口の軽い、けれど身分の高い貴族が話しているのを偶然聞いてしまったのだ。最初はアルベールの結ぶ縁を国のために役立てたい国王の企てかと思ったが、そうではなく。ある貴族が自分の娘とアルベールの縁を繋ぎたいと考えた故の独断だとも同時に知った。王にはアルベールに伝えているのと同じく、騎士団長の健康管理のためと知らせていて、今のところそれを疑われている様子もないらしい。多分あの部屋の中でも知っているのはほんの一握りの人間だけで、他は自分たちが行っているのは騎士団長のためのものだと信じているだろう。
アルベールに掛けられているのは『運命の番を見付けても、分からないように、番わせないように、その者を愛おしいと思うと激痛を与える呪い』。ある女性が個人的な目的で作り出したものらしいが、娘をアルベールの番にしたいと企んだ貴族が多額の金を払って術式を買い取ったのだと言っていた。定期的に掛けなおさなければ効力を失うらしいから、アルベールには検査のためと偽って月に二度はあの部屋に来るように仕向けているようだ。
それを知っていたから、アルベールが苦しんでいるのを見て、ユリウスこそが真の番なのだと理解した。けれど。納得はできなかった。アルベールがユリウスを『親友として』とても大事にしているのは騎士団と少しでも関わりがある者たちの中では有名な話で。愛情を受け取る相手としてまで彼が選ばれるのは、叶わないと思いつつもアルベールに想いを抱いている身としては悔しかったのだ。だから今日、呪いのことを隠したままユリウスに話をした。出て行かなくとも、少しくらい苦しめばいいと思って。この家でユリウスはアルベールにとてもとても大事にされていた。貴族の多くから、王の落胤で忌子として扱われていた彼にそれは贅沢だという暗い気持ちを抱いてしまったのだ。
去っていたユリウスをアルベールが追わないことを期待したが、彼がそれを選択することはないだろうとも同時に思っていた。おそらく戻って来たアルベールからは解雇を告げられるだろう。それでも。呪いのことは告げないでいようと思った。
想い人が『運命』と結ばれる日が少しでも遅くなるように。彼を襲う痛みが彼の運命との距離を遠ざけるように祈って。
恋する女のなんとも性格の悪い『意地』だ。
膝の震えが幾分回復してから立ち上がると。かさりとエプロンドレスのポケットが音を立てる。それはユリウスへの話が終わった後、彼がその場で書き記し手渡されたもの。内容を確認していなかったと気付き、二つ折りのメモを開いて視線を向けると、記された内容に。
全く勝ち目のない、意味のない勝負を仕掛けていたのだと、気付かされた。
メモの中身はアルベールが好む食事の傾向と、それに基づいたレシピ。自分があの家で作って来た食事とはかなり系統の違うもので。
紙の端には小さく、遠慮がちなサイズの文字で『貴方が作っていた食事は、どちらかというと私が好むものです』と記されていた。
ユリウスが残したアルベール好みのレシピを、自分が彼のために作る機会はやってこないだろう。
「ユリウス!!」
聞こえてきた声は、幻聴だと思った。けれど。
「ユリウス、待ってくれっ」
再び耳に届いた声に、人通りのない寂れた山道を歩いていた足を止め、振り返ると。
「!」
馬に乗ってこちらに駆けて来る親友の姿が確かなかたちを持って瞳に飛び込んで来た。その光景が信じられず呆然と立ち尽くしていると。
「間に、あっ……た」
馬から下りたアルベールの腕の中に抱き寄せられた。
「しんゆうどの……私は」
「前も言ったがあれは絶対にお前のせいじゃないっ」
「しかしっ」
「何かおそらく外的な原因があるんだ。そうじゃなければっ」
抱いている最中、触れている時間はあんなにお前を愛おしいと感じるのに、その後お前を強く想う度に痛みに襲われるなんておかしいだろう!?
「え?」
(聞き間違い? そうではなければ……)
アルベールもこの体に触れている間、同じ想いを抱えている? だとしたら。
「一方通行の運命の番では、ない?」
「ユリウス?」
アルベールは『運命の番』の知識がないのか、ユリウスの零した言葉の意味が分からないという顔をしている。普通バース性についての教育を受ける上で『運命の番』というのは必ずと言っていいほど聞く言葉にもかかわらず、だ。
(……運命の番を見付けられる者自体多くはないが……その多くない者達の中で、見つけた二人は歳の近い場合が多いと聞く。ならば……アルベールと同じ年の生まれである私が……彼の番である可能性を予め考えて……)
それを良しとしない者に彼がバース性の知識から遠ざけられ、そして干渉を受けていても可笑しくはない。むしろアルベールを気に入っている父王などはその筆頭だろう。そしてその干渉を解決できれば。
この身は彼を傷付ける憂いなくアルベールの傍に居られるのだろうか。幸い何かの因果を探るなどの研究は得意分野だ。ただ本当に父王が大きく関係していれば、父の指示だった場合は、己の行動は限られてしまうし、この身は父に対抗する手段など持っていないから、今浮かんだ小さな希望も打ち砕かれてしまうだろう。それでも、父が関わっていなければまだ救いはあるはずだ。
僅かな希望を心の奥底に浮かべながら、絶対に離さないというように痛いくらい強く抱きしめて来る親友の背中に、ユリウスはおそるおそる腕を回す。回した手できゅ、と小さく彼の服を掴むと。
抱き締めてくるアルベールの力が僅かに緩んで。彼が泣きそうな、けれど心底安心したような笑みを浮かべたのが分かった。